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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第40回 晩夏の午後 2007/9
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 訪問看護ナースの三田さん(50歳)が、訪問先のお宅で、男性患者さんの身体を拭いています。室内はシーンと静かで、清拭用のタオルを搾る音が響きます。
 患者の瀬川さん(72歳)は憮然とした表情で仰向けになっており、三田さんは彼の手を拭きながら言います。
「御身体を拭き終わりましたら、次にお腹のほうの取替えをさせていただきますので」
 お腹のほうというのは、人工肛門の装具のこと。これまで何遍も行ってきたので、患者の瀬川さんもケアの流れは十分に承知している手順です。けれども三田さんは、あえて説明しました。淡々とした口調でです。
 それを受けて瀬川さんは、天井を見つめたまま無愛想に「はい」と返答します。すると三田さんは咄嗟にくるりと瀬川さんに背を向けて、清拭タオルを絞りながら奥歯をぐっと噛んで、小さく深呼吸をします。瀬川さんもまた、薄い頬の下で、奥歯をぐっと噛んで、呼吸を整えます。
 実は二人、笑いをこらえているのです。
 
 いまから一月半ほど前、ケアを終えた三田さんが帰りの挨拶をすると、瀬川さんはこう言ったのでした。
「無理に笑うの、やめませんか」
「は?」
「ご存知のとおり、私は夏の間じゅう機嫌が悪くなる。落ち込む。これは、いまや私の習性みたいなものになってしまった。その時期は、あなたも含め、ケアにやってくる人は、私を少しでも和ませようとあれこれ気を使うから、こちらもなるだけ愛想よくしなければと思ってやってきました。無理に笑顔を作る。しかし、それも疲れるんですよ」
 <瀬川さんの梅雨明けは9月のはじめ>と、三田さんが属している訪問看護ステーション内で話題になることがあります。戦争でお兄様を亡くした、子供さんを事故で亡くした、奥さんと離婚した、などなど、人生における辛い出来事はすべて夏、とくに8月に起こったらしく、彼は毎年、入梅とともに機嫌が悪くなり、またそれは梅雨明けとともには消えずに、9月はじめごろまでは続くのです。
 たしかに、そういう時期に、あれこれ看護スタッフに気遣われると瀬川さんにとってはかえって負担になるかもしれない、と思い、三田さんはこう答えました。
「お気持ちを話してくださりありがとうございます。よかれと思ってこちらからお声をかけたりすることが、わずらわしく迷惑に感じられるのはわかります。今後、気をつけます。それと瀬川さんは今後、無理に笑顔でお答えにならなくても大丈夫ですので」
 患者さんに笑顔を期待してはいけない。患者さんは、病気により辛い状態にあるため、基本的に不機嫌なのだ。と、三田さんは看護学生のとき、尊敬する先輩からおしえられました。
 三田さんが、次の訪問先への時間を気にして、「それでは、失礼いたします」と瀬川さんに会釈して、退出しようとすると、瀬川さんが引きとめました。
「ちょっと待ってください。私は、今後、無理に笑わないことにします。で、あなたにも、しばらくの間、無理に笑うことや笑顔をやめてほしいんですよ。あなたはベテランだから、やること言うことに非の打ち所がない。しかし最近のあなたの笑顔は、ほかの人は気づかないかもしれないが、私にはわかる、無理した笑顔だ。たぶん、心身ともに相当疲れているのでしょう。こまかなことを言うと、私、つまり患者から笑顔を引き出すための手段として笑いかけたり、プロとしての余裕の笑顔を見せたりする。私はこの夏、とくに滅入った気分なので、そういう笑顔を見ると、正直イラつくんです。ですから、あなたも一切私に笑顔を見せないでほしい」
「………」
 三田さんは、思いもよらない指摘に、驚くと同時にくやしさのような感情がこみ上げてきました。心身ともに疲れている、というのは図星でした。毎日の舅の介護、息子の引きこもり、夫の転勤、職場での人間関係のごたごた……。道の真ん中にへたりこんで、大声で泣きたい気分がずっと続いているのです。しかし彼女は、看護のプロとして、仕事中は平常どおりに取り組むよう心がけてきました。でも、瀬川さんの言葉で、それができていなかったことがわかったわけです。絶句してしまった三田さんに瀬川さんが言いました。
「実は、そこのタンスのドアにはめ込んである鏡でね、うちに入る前のあなたの姿を見ることができるんですよ。最近あなたは、相撲取りみたいに、頬を両手でパンパンパンとやって、ニコリと笑顔を作ってからうちのチャイム鳴らすでしょ。そうやって、無理して作った笑顔が、こっちにすれば有難くないんだ」
 三田さんは、自分なりに自分を鼓舞していることまでとやかく言われる筋合いはないと思い、かちんときました。
「そ、そんなに、私の笑顔でご不快になっていらっしゃるとは知りませんでした。わかりました。それでは、私は今後笑いませんので」
「そうしてくださいよ。お互い、笑わないことにしましょう」

 三田さんが瀬川さんを訪問するのは週二回。以上のような経緯で、お互い笑わないことにして、一月半経ちました。不思議なもので、笑わないことにしたら、会話も事務的な用件のみになり、最初の三週間ほどは、緊張した空気が室内にただよっていました。が、四週目に入ったころから、二人ともこの状況に疲れてきて、「自分からは笑わないよ」といった意地の張り合いのような空気になっていったのです。お互い、笑いたくて仕方ないのを、感じとっていました。それで最近は、いかに相手を根負けさせて笑わせるか、しずかなせめぎあいがつづいていたのです。

 さて、清拭、人工肛門部のケア、着替え、と順調に済み、布団をかけなおして一段落つくと、シーンとした中、うすく開けていた窓からトンボが入ってきました。こんなことで笑ってしまう二人ではありません。二人は奥歯にぐっと力を入れて、トンボの行くところを目で追います。するとトンボは、瀬川さんの顔に止まりそうになって止まらず、三田さんの手の甲に止まりそうになって止まらず、を繰り返した末、瀬川さんの鼻の頭に止まったのです。この図のおかしさにはどうしても我慢できずに、三田さんは噴き出してしまい、ほぼ同時に、瀬川さんも顔をくしゃくしゃにして笑い出しました。
 二人の笑いはなかなか止まりませんでした。

 この出来事があったからか、今年の瀬川さんの梅雨明けは、例年よりもかなり早い8月下旬となったのでした。また、三田さんは、自分ががんばりすぎていたと反省し、負担を軽減する策をあれこれ考えるようになったら、肩の力が抜けてきたそうです。

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