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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第41回 お父さんの時計 2007/10
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 日曜の午後。
 小山田昇一さん(65歳)が、消化器外科病棟の病室(四人部屋)で、上半身部分を斜めにしたベッドに背中を預けて座っています。胃の手術をして順調に経過し、数日後に退院の予定なのですが、浮かない表情です。
 彼はココロの中でつぶやきます。
<どうしてオレは、これほどまでにこだわっているんだろう。まったくどうかしている。でも、気になって仕方ない。あの時計をどうすることに決めたのか>
 そして、ちらりとベッドサイドに置いた腕時計で時間をみます。彼の妻と息子らが面会にくるといっていた時間はとうに過ぎています。
 
 昨日のことです。昇一さんと面会にきた彼の妻は、こんな会話を交わしました。
「そういえば」と妻。「居間のお父さんの時計、電池を入れ替えても動かなくなっちゃったのよ。どうしましょうね」
「……ああ、あれか。寿命かな。考えてみれば、もう35年も壊れずに動いてきたんだな。十分働いただろ。適当に処分してもらっていいよ」
「でも、あれ、お父さんの大事な記念のだから…」
「動かない時計なんて、無用の長物なんだから。ススムたちと話しあって、新しいのを買うなりなんなり、してくれ」
「そうお?」
 妻は、ほかにいくつか世間話をしてから帰っていきました。
 昇一さんの内心は、時計の件で穏やかではありませんでした。
 <お父さんの時計>とは、昇一さんが30歳のとき、独立のために勤めていた会社を退職した際、職場の皆が記念に送ってくれたものでした。大きくて見やすい置時計で、小山田一家のメインの時計として、居間のいちばん見やすい場所に置かれています。
 昇一さんは、胃がんの手術後、医師からは「手術は成功、転移もありませんでした」と言われたにもかかわらず、なぜか最悪の事態つまり自分が死を迎えた場合を考えはじめました。
 そして、死において、いちばん辛いことは家族と別れることだと思い、そのうち、死んでも自分の魂だけは、家の中に棲み、みんなと一緒にいたいと思い、またさらに、魂になって家の中でふらふらするのではなく、一箇所にとどまり、みなを見守りたい、その一箇所とは、例の時計しかないという考えにいたったのです。
 そう結論が出ると彼は、すーっと安らかな気分になりました。
 彼は、自分の魂が例の時計に宿り、家族の暮らしの様子を見ている夢も見ました。たとえば、<台所で妻が鼻唄をうたいながら食事の支度をしているところ><居間から出ることができる庭で家族の洗濯物が白くはためいているところ><夜に二人の息子がそれぞれに仕事を終えて帰宅し、テレビを見ながらビールを飲んでいるところ><日曜の昼前に遅い朝飯としてみんなで冷やし中華やそうめんあるいはヤキソバなどを食べているところ>を例の時計の中から見て、幸せな気分になっているという場面。
<お父さんの時計>は、35年間、時を刻みながら、小山田一家の暮らしを見つめつづけてきた時計。ちょうど長男が妻のお腹にいたときにやってきた時計。昇一さんが、仕事で帰りが夜中になったとき、出張で数日間家を空けたときも、その代わりに家族を見守ってきた時計です。
 <壊れてしまった上に、どう処分したらいいか家族は迷っているーー。今後もずっとずっと動いているはずだと思っていた時計が壊れただけでも、自分の死後の計画をばっさりと切られてしまったようでショックなのに…。捨てられるのも片付けられるのも、自分の存在がなくなってしまうような気がする。あの時計をどうすることにするのだろう、できれば、捨てたり片づけたりしないでほしい。いや、捨てたとしても微塵も妻や息子たちを責めることはできないのだ。でも……。>そんなことを繰り返し考えているうちに夜が明けてしまい、昇一さんは朝にやっと眠りについたのでした。

 昇一さんが、浮かない表情でベッドサイド上の腕時計に目をやると、気配がして、彼の妻と息子二人が到着しました。
「お、遅いじゃないか」と昇一さん。
「いろいろと連絡が入ったりなんだりで、遅くなっちゃって。ごめんね」と妻。「そうだ忘れないうちにいくつか言っとかなきゃ。町内会の人達が、退院前に代表者がお見舞いに来たいって言ってきたわよ、どうする? それと、お見舞いをくださった方たちへのお返し、退院祝いを何にするか、今日の帰りにススムたちとデパートに寄って、だいたい決めてしまわないとと思って、それから…」
「そんなこと、どうでもいい!」
 昇一さんは、術後でお腹に力が入らないため、それなりの大きさの声でピシャリと妻の言葉をさえぎり、口をへの字に曲げます。
「父さん、具合悪い? 看護師さん呼んでくる?」と長男。
「寝不足ぽい顔してるけど、大丈夫? なんかやることある?」と次男。
「いや…別に」と昇一さん。
「お父さん、ごめんね」と妻。「昨日はとても調子よさそうだったから、元気なときのお父さんみたいなつもりでいろいろ言って、すぐ帰るからね」
「いや、せっかく来てくれたんだから…」と昇一さん。
 昇一さんの不機嫌に驚いた妻と二人の息子は、ベッドサイドの丸椅子にかけ、気まずそうに下を向いて黙り、場はシーンとします。
 昇一さんは、ほんとうは、例の時計をどうすることにしたのか聞きたいのですが、口には出せません。
 と、妻が思い出したように立ち上がり、カーテンの向こうに置いていた紙袋を昇一さんの手元に持ってきて、「そういえば、これのことでも時間をとって、遅くなってしまったのよ」といいながら、紙袋の中のものを取り出します。「修理っていう手もあるな、と思って駅前の古い時計屋さんに持っていったら、すぐその場で修理してくれたのよ。それにも少し時間かかったから遅くなってしまったの」と言って彼女は、例のお父さんの時計を袋から取り出しました。
 昇一さんは目を丸くして、動いているその時計を見たあと、憮然とした様子になり「ススム、ベッドの足側にあるボタンを押して、ベッドを水平にしてくれ」といい、ベッドが水平になると布団をかぶってしまいました。涙が出そうになったからです。
 妻が息子たちにささやきます。
「父さん、病気のことがわかったあと手術して、それが無事終わり、転移もなかったといわれて、いま、やっとほっとしているところなのよ。緊張の糸が切れて、どっと疲れが出たんだわ。母さんが明日また来るから、今日は帰ろう」
 そうして三人は、昇一さんに声をかけて帰っていきました。
 昇一さんは、かぶった布団の下で<たしかに、シズエ(妻)の言うとおりかもしれない。そうか、オレはほっとしたんだ。オレは緊張してずっと不安や恐怖を封じていて、今ごろそれが吹き出したのかもな。それであの時計には、へんに固執したのかもしれないな>と思いました。そして彼は、涙がつうっと耳のほうに流れるのを感じたのです。

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