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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第42回 禁句 2007/11
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 ナース3年目のユカリさんが、自室のベッド上で横になっています。深夜勤務を終え、10時半ごろに帰宅し、シャワーに入ったあと、ミルクティを飲みながらしばらくぼーっとして、さきほどベッドに倒れこんだところです。座る暇もなかった深夜勤務でしたから、全身が「眠りたい、眠りたい」と訴えているのがわかるのですが、ある気がかりな点があって、彼女の目はさえる一方です。
 なんとなくつけたテレビで放送されている「笑っていいとも」についてユカリさんは思います。
<この番組って、その日の気分によって見え方が大きく違う。くだらなくてゆるい感じがすごくおもしろいと感じるときもあれば、まったく逆のときもある。それは、その日の番組の出来不出来には関係ないように思う。見る側のコンディションに大きく左右される。ココロの調子がよくないときは、実におもしろくないと感じる。ということは、番組のなにかが一定しているということだろう。もしかして、この番組は、自分の調子を知るためのバロメーターとして、少なくない数の人が見ているのかもしれない。それが長寿番組の所以の一つか…。今日はこの番組、ぜんぜんおもしろくない>
 ユカリさんは、リモコンでテレビを消して目を閉じます。すると、今朝の深夜勤務終了直後の一場面が彼女の目蓋に浮かんできます。
 ユカリさんは今朝、深夜勤務を終えてナースステーションの奥にある休憩室でお茶を飲んでいました。ふと、日勤者に伝え忘れたことがあるのを思い出し、さっそくナースステーションに行くと、朝のあわただしい雰囲気の中、少し前に引き継ぎをした日勤のリーダーAさんと二人のスタッフがミーティングをしていました。その三人に、カオリさんが背後から声をかけようとしたそのときです。
「禁句だよね」
「たしかに」
「禁句中の禁句だよ」
 という彼女らのひそひそ話が聞こえてきました。
<ん? なんのこと? もしかして、私がなにか患者さんに禁句を言ったの?>
 カオリさんは急に不安が膨らみ、絶句してしまいます。
 日勤の彼女らは、背後に立っているカオリさんに気づくと、聞かれたらますい、といった顔をして咄嗟に下を向きました。
 カオリさんが彼女らに声をかけました。
「カンファレンス中、ごめんなさい。伝え忘れていたことがありまして」
「なんでしょうか」
 カオリさんはそれを伝え終え、すぐに休憩室に戻ろうとしましたが、気になったので思い切って彼女らに聞いてみました。
「あの、私、もしかして、何か、患者さんに対してまずい言動などがあったでしょうか。朝のラウンドのときに、どなたか患者さんが言ってました?」
「は? なにもそういうことはないですよ」
 三人は怪訝な表情をカオリさんに向けます。
「そうですか、失礼しました」
 丁寧ではあるものの、どこか冷たさを感じる「いいえ、お疲れ様でした」という彼女らの言葉にお辞儀を返して、カオリさんは休憩室へと戻ってきました。
 10日前に、カオリさんは、脳外科病棟から現在の血液内科病棟へと異動してきました。脳外科病棟での仕事にやりがいを感じはじめ、このまま脳外科系の看護を極めていきたいと意気込んでいたところに、異動の辞令がおりたのでした。困惑した彼女は、看護師長に異動したくないと率直に話しましたが、その希望は通りませんでした。
 異動して間もないいま、向き合う疾患も、それに伴う看護も、スタッフも雰囲気も大幅に前の病棟とは違う新しい職場に、彼女はまだ馴染めていません。カオリさんは、今朝引継ぎをしたナースのAさんには冷たく拒否されているように感じており、とくに馴染めないでいます。
 カオリさんは、自室のベッド上で寝返りを打ち、もう一度、朝のAさんらとのやりとりを振り返り、思います。
<Aさんらのあの様子は不自然だった。実際、あの場で、私について噂していたとしても、それを私に言うわけがないんだ。私はどういう失言をしたのだろうか。それとも、禁句という言葉に敏感な私だから、こんなふうに考えてしまうだけだろうか>
 カオリさんは、学生時代の臨床実習中にひとつの失敗をしました。受け持ち患者の高齢の男性(半身に軽いマヒがある)を、車椅子で検査室に移送することになったときのことです。その患者さんは、手助けをあまり好まない気丈な方でした。ベッドから車椅子に移る際、カオリさんが「大丈夫ですか?」と声をかけると「大丈夫だ」と返事があったので、彼女はそばで見守るだけにしました。すると、ベッドサイドに立ち上がった彼は、立位バランスを崩し、カオリさんにぶつかるように倒れこみ、カオリさんも立位バランスを崩したのです。そこに駆けつけたナースがカオリさんと患者さんを咄嗟に支えなければ転倒し、怪我や病状への影響はさけられない事態になるところでした。
 その際にカオリさんは、危機一髪で支えてくれたナースからこんなアドバイスをもらったのです。
「患者さんに漠然と聞く<大丈夫ですか?>という言葉は禁句。せめて、●●は大丈夫ですか? と具体的に主語をつけて聞かなければ、患者さんはなにについて大丈夫?と聞かれているかわからず、戸惑ったり、自分流に解釈して<大丈夫です>と答えたりします。あなたは禁句を言ってしまったのよ、心に深く刻んでくださいね」
 それ以来カオリさんは、看護雑誌などを調べたり、先生に訊ねたりして、看護の場面での禁句と考えられる点を調べ、実習の際に、そして就職してからも注意するようになりました。しかし、いくら注意を払っていても、さまざまな状況にある患者さんにとって、どんな言葉が禁句になるか予測しきれない面があり、カオリさんは不安を持っていました。異動してからは、業務や病棟に慣れていないことも関係して、その不安が増していました。
 カオリさんは、ベッド上でまた寝返りをうち、思います。
<こんなふうに気にする私って、ナースに向いてないのかなあ。なんだか疲れたなあ。……辞めようかな>
 カオリさんは、これまで<辞めたい>と思ったことは何度かありましたが、<辞めよう>と考えたのははじめてで、彼女はそんな自分に驚きます。それをきっかけに、異動してからの張り詰めていた糸がぷつりと切れてしまったのか、カオリさんの目からどっと涙が溢れ出します。
 と、そこへ、カオリさんの携帯電話が鳴ります。
「もしもし、明けでおやすみのところごめんなさい」
 なんと電話は、日勤勤務中のAさんからでした。電話番号をカオリさんの友達におしえてもらったとのことでした。
「明けで帰ってゆく大木さん(カオリさんのこと)が、とてもとても不安な表情してたから気になって電話しました。実は、今朝、ひそひそ話していたのは、最近スタッフ間でちょっとした恋愛沙汰があってね、それにまつわる話をしてたから、大木さんに聞かれたかなと思ってへんな態度とっちゃったの。大木さん、自分のことかなと心配したんじゃないかな、と気になって」
「わざわざありがとうございます」
「このところ、その恋愛沙汰のことで騒ぎがあったから、事情を知らない大木さんには新しい職場が感じ悪い雰囲気だっかもしれないですね。今度、いまの騒ぎのこと詳しく話しますね。一緒に仕事、がんばっていきましょうね」
 
 電話を切ったカオリさんがテレビをつけると「笑っていいとも」がまだ放送されていました。タレントたちがわいわいがやがやとクイズの答えを考えています。カオリさんは、あるタレントの言動が可笑しくて思わず吹き出してしまったそうです。

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