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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第45回 イチ、ニッ、サン! 2008/2
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 昼下がりの某リハビリ病棟の病室(四人部屋)。
 患者の玉木四郎さん(79歳)がベッド上で仰向けになっています。
 彼の風貌は元衆議院議員で元官房長官の野中広務さんにそっくりで、病棟のスタッフたちは彼を、敬愛の念を込めて影で「長官」と呼んだりしています。仏頂面ながらもいつもきちんと「ありがと」と言ってくれるところや、排泄の回数をカウントする正の字が実に力強く達筆であるところや、新人ナースの緊張を和らげようと、ルー大柴のルー語で「ワンデイもアーリーにグッドに(一日も早く良く)ならなきゃな」などと難しい顔をしていってみたりと、人間としての温かみが滲み出ており、スタッフたちはみな密かに彼のファンなのです。口をきゅっとへの字に曲げ、仰向けに寝ながら腕組みをし、眉間に皺を寄せて目蓋を閉じているのが、彼のいつものスタイルであり、それが上機嫌な証拠でもあります。
 そんな彼が、今日は朝から、口元がだらりとゆるみ、例の寝たままの腕組みもせず、ぼんやりと天井をながめており、いつもの毅然とした雰囲気もなくなっているのです。
 ナースたちは心配して、バイタルサインなどをチェックしたり、彼に体調をたずねたりしましたが、病状に問題はないようです。
 玉木さんは、がっかりしているのです。
 実は彼は朝食後に行われた転ベッドにたいへんな期待をしていたのです。昨日、ナースから転ベッドの話があったとき、心中で万歳をして喜び、昨夜は遠足の前夜のように転ベッドを楽しみにしながら眠りについたのでした。病室が変わることを、ここの病院では転ベッドと呼んでいます。
 玉木さんは、転ベッドのなにがそんなに楽しみなのか。
 彼は、半月前の転ベッドの際に、幸せで一杯になりました。ナースが四人がかりで、仰向けになっている玉木さんを抱え、「イチ、ニッ、サン!」と掛け声をかけ、彼の身体を移動させました。幸せになった理由のひとつは、ナースたちの掛け声が気に入ったこと。彼は昔から掛け声というものが好きで、しかもテンポの速い引き締まった掛け声が大好きなのですが、ナースたちの掛け声はそのタイプの掛け声だったのです。「イチー、ニノー、サーン」といった間延びした掛け声ではなく、みながタイミングを確実に合わせ、すばやく動作するためのきりっとした「イチ、ニッ、サン!」。ふたつめは、その掛け声が、あの世に先立った愛妻が口にしていた調子によく似ており、とてもなつかしくなったこと。みっつめは、四人のナースに抱えられたときのふわりとした感覚が、子供のときに母親に抱きかかえられて布団まで運んでもらったときに似ていること。そしてよっつめは、ナース四人が、自分のために力を合わせてくれているという事実に感動したこと。
 <ああ、あの幸せをまた味わえるのか>と、心の中でにんまりしながら、朝食を早々に済ませて、彼はベッド上に横になり、転ベッドを待っていました。
 しかし、今回の転ベッドは、となりの病室に、ベッドごと移動するという形式だったのです。つまり、ナースが玉木さんの身体を抱きかかえて移動する必要はなく、掛け声の必要もなく、あっけなく転ベッドが終わってしまい、玉木さんはがっかりしてしまったのでした。
 玉木さんは、がっかりしている自分に対しての狼狽が大きく、その動揺が、口元をゆるめ、腕組みを忘れさせていたのでした。
 彼は心の中でつぶやきます。
<子供じゃあるまいし、どうして私はこんなにもがっかりしているんだろう><ナースさんがいつもと様子が違うといくら心配してくれても、恥ずかしくてほんとうの理由なんかいえるわけがない><年を取り、病気をして、気が弱くなってしまったんだろうか><私は、こんな些細なこと以外に、楽しみがないということだろうか>
 職員食堂で、ナース三人が遅い昼食を摂りながら玉木さんの話をしています。
「長官にいったいなにがあったんだろう。あんな弱弱しい雰囲気の玉木さんを見たのはじめて」
「窓際のベッドだったのが、今度の病室では廊下側になったのが不満だとか」
「それはないでしょ。人間ができた長官が、説明を受けて承諾したことに対して、どうのこうのっていうのはないでしょ。スタッフの誰かが、失礼なことでも言って怒らせたんじゃないのかな」
「さあね。午後にさ、玉木さんのベッドを別のベッドに交換しなければならなくなったのよ。ベッドのストッパーが甘いのが判明してさ。なんか、気が重いなあ」

 午後、ナースが申し訳なさそうに玉木さんに事情を説明し、ベッドの交換が行われました。玉木さんはナース四人に抱きかかえられ、例の掛け声とともに彼の身体は新しいベッドに移されたのです。
 玉木さんは、予想外のうれしい出来事に、心の中で飛び上がって喜び、それまでの狼狽など一気に吹き飛び、その後いつもの、への字口、腕組み、眉間に皺、に戻りました。

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