Archive

小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第48回 待ち時間 2008/5
dotline

 平日の13時半すぎ。
 某大学病院の外科外来の待ち合いスペースに、多くの診察待ちの人たちが長いすに座っています。
 その中の一人の女性が、ハンカチで顔を覆っています。泣いているように見えます。隣に座る年配の女性が心配そうに彼女に声をかけます。
「どうなさったの? 具合が悪いんですか? 看護師さんにいいましょうか」
「い、いえ。大丈夫です。花粉症なものですから。ありがとうございます」
 ハンカチの女性はそう答えると、鼻をかみます。
 この女性は、吉池さん、36歳。実は花粉症というのは嘘です。急に泣けてきてしまったのです。

 一体どんな涙なんでしょう。
 いまから15分ほど前、吉池さんと同じ待ち合いスペースで診察を待っていた一人の患者さんが、看護師さんに待ち時間について訊ねたあと、連れの人にこう言ったのでした。
「U先生にかかる人ね、10時に予約した人がまーだ終わってないんだって。だから11時の予約の私までは相当な時間かかるって」
 すると、それまでは、じっと無言で待っていた人たちの多くの人が肩を落としため息を漏らし、そして、ぽつりぽつり、となりの人に不満の声を漏らすようになり、その言葉が吉池さんの耳に届いたのでした。
「こないだなんか、11時に予約したのに、結局夕方5時になってしまったんですから」
「どうにかならないのかしらね、待ち時間」
「多少待つのは仕方ないとしても、この場所に張り付いていなければならないのが苦痛でね」
「病院によっては、順番がきたらポケベルで呼んでくれるとか、待ち時間を極力減らすような予約の取り方するとか、いろいろ工夫しているらしいのに」
「ほんと、体力消耗するわね。待つ人間は病気で弱っていたり、不安でいっぱいだったりするのにね」
「事務の人や看護師さんたち、淡々としちゃってね」
 少し前まで、看護師として別の病院の外来に勤務していた吉池さんは、耳をふさぎたくなりました。彼女の勤務先だった病院外来も大変待ち時間が長く、苦情が絶えなかったのです。患者さんたちの辛さはわかるものの、改善できないさまざまな理由があり、彼女はいつも心苦しく思いながら働いていました。患者さんたちのイライラを少しでも軽くしたいと、どんなに忙しくても、問われれば即座に診察室に行って確認し「あと○人待ちの状態です」と笑顔で応えるよう務めていました。ここのスタッフも、毎日心苦しく思いながら対処しているのだろう、と彼女は思いました。
 そこへ、「あのねえ」という男性の少し大きい声が、吉池さんの背後から聞こえてきました。座っている長いすの何列かうしろに座っている人のようです。
「あのねえ、みんな我慢して口つぐんでしまわないでね、ある程度言ったほうがいいんだよ」
 声と口調は、あの、いかりや長介さんが刑事役をやったときに似ています。彼が続けます。
「言いたくもなるよ。私なんか、この病院通いにはほとほと参っているんですよ。実に流れが悪くてね、なにをするにも待たされる。あっちで一時間、こっちで一時間、そしてまたあちらで一時間といった具合だ。まあ、診察を待つときは椅子がありますからまだいいけど、会計はね、突っ立ったまま長い時間待たなきゃならないことが多いんです。自動支払い機だって、四台あるうち三台が調整中で、使えるの一台。そりゃ混みますよね」
 彼の言葉に、一旦は閉じた目を開けてうなずく人、「たしかにそうだ」といいたげにニヤリとする人と、場がさきほどの不満の声があがったときのムードに戻ってきます。いかりやさん似の彼が続けます。
「で、駐車場がまたおかしい。駐車場への入り口は一レーンで、出口が二レーンですよ。それによって、外来受診者の入る車が集中する午前中は、駐車場に入るところでかなり待つことになるんです」
 何人もの人が大きくうなずきます。彼が続けます。
「実は私、このところ、必要があって毎日ここに通っているんです。うっかりすると昼飯も食いっぱぐれて、食後の薬も飲めなくなっちゃうのでね、ほら、これ、弁当と水筒を持ってきてるんですよ。それで、合い間を見てささっと食べるわけです」
 ほう、そりゃたいへんだ、という声が漏れます。それとともに、みな、ぶつぶつと不満を言い出します。いかりやさん似の彼の言葉に刺激されたのか、噴出したように、わーっとそれぞれが語りだします。そのなかには、外来の看護師や医師への不満を口にする人も出てきます。
 吉池さんは、だんだんといたたまれなくなってきました。<この病院の医師だって看護師だって事務の人だって、きっと全力を尽くしている。現状の中で少しでも待たせず、しっかり診療を行なおうとがんばっているはず。でも、その気持ちは患者さんたちには伝わっていないのかもしれない> たぶん、全国の多くの病院でこういう残念な事態になっているのだと思うと、吉池さんはむなしくなるのでした。また、看護師としてくやしくもあり、病院側の弁護もしたい強い気持ちにもなりました。しかし何も言えず、吉池さんはそんな自分も情けなくなりました。
 と、そこに、予想外の言葉が吉池さんの耳に届いたのです。いかりやさん似の彼の声でした。
「でもね、みなさん、ゆめゆめお医者さんや看護師さんを恨んじゃなりません。ご飯も食わずに一生懸命やってるんですよ。彼らも、いわば、この病院のシステムの被害者なんだ。どうしようかって、一緒に考えていければいいね。敵同士じゃないんだから」
 最後の、敵同士じゃないんだから、という言葉に「ほんと、そうだよなあ」と思った吉池さんの目から、どっと涙が溢れてきたのです。ほっとして流れた涙だったのです。

ページの先頭へ戻る