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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第49回 タンザニア 2008/6
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 介護老人保健施設「ヤマブキ(仮名)」の一室。ベッド上にあお向けに寝ている高齢の男性に、ヤマブキのナース・松本さん(30歳)が話しかけています。
「今日はいい天気ですね。タンザニアは、どうでしょうか?」
「また今度にしますよ、ハハ」
 と、しわがれた声で応えた彼はヤマブキに入所中の高岡さん(92歳)。彼の介護を担っていた息子さん夫婦が二人とも病気になり介護できなくなってしまい、二週間前にヤマブキに入った方です。「働き詰めの人生だったんだから、寝ているのを起こすなんて可愛そうだ」といって息子さんが彼を寝かせきりにしていた関係で、現在、高岡さんは自力で身体を起こすことが難しい状態にあります。
 しかしヤマブキのケアスタッフたちは、彼を観察した結果、積極的に働きかけ、本人も起きる意思を持ってリハビリに取り組めば、自力で起き上がるだけでなく、車椅子に座り、そして少しずつ歩き、やがてはトイレにも行けるようになり、日中くらいならオムツをしなくてもいい状態になれるだろうと考えました。これまでにもヤマブキの多くの入所者の方が、リハビリによってADL(日常生活動作)を拡大したのです。
 端座位(たんざい)になること。それが高岡さんにとってリハビリの大きな一歩になるとナースの松本さんたちは考え、彼に働きかけはじめました。端座位とは、ベッドの端に腰かけて、ベッドの横側に足を下ろした体位です。ベッドの背をあげてもたれる座り方よりも脊柱起立筋などを使う、覚醒しやすい、車椅子に移乗するよりも手軽にできる、などの利点があります。
 この端座位を彼にはじめて促した一週間前、ナースの松本さんと同僚の話を耳にした高岡さんが「端座位」を「タンザニア」と聞き間違え、それがきっかけで、彼のベッドサイドでは端座位をタンザニアと呼ぶようになったのでした。
 ヤマブキのスタッフたちは、リハビリは本人の意思こそが大事だとわかっているので、強引に起こすような方法はとりません。彼がやる気になりそうな話題を持ちながら、この一週間、彼に根気よく端座位をすすめてきました。
 しかし、彼の返事は毎回ノー。長らく横になったままだったため、起き上がることへの不安や、億幼さがあるようで、スタッフが声のかけ方をあれこれ工夫して促しても、彼は「いまのままで不都合はないし、そうしなきゃならない理由がない。また今度にするよ」と応えるのでした。
 今日は高岡さんに笑顔が多く見られるので、ナースの松本さんは、いつもよりねばって働きかけてみようと思い、彼のベッドサイドにしゃがみこみ、ニコリとして話しかけます。
「タンザニアのこと、スタッフの控え室で大うけなんですよ。流行ってますよ。ところで、高岡さんが寝ていらっしゃるこのベッド、タンザニアの状態になったときに足がついて身体が安定しやすいように低めになっているんですよ。試してみませんか?」
「…………」
「それまで仰向けですごしていた多くの方が、タンザニアからはじめて、自力でいろいろできるようになったんです。ほんとうに、寝てばかりいたころが嘘のようだとみなさんおっしゃいますよ。いいことがいっぱい待っているんです。ちょっと起きてみませんか?」
「…………」さっきまでにこやかだった高岡さんの表情が曇ります。
 それに気づき、総合病院の外科病棟からヤマブキに移って間もないナースの松本さんは、内心どきりとします。端座位に取り組むかどうかで今後のリハビリがうまくいくかどうかがかかっているといってもいいのです。リハビリに取り組めなければ、体調には実に大きな悪影響を及ぼし、場合によっては命にかかわる肺炎などの病気を誘発してしまうのです。今日の彼女の働きかけ方によって高岡さんが意固地になってしまい、リハビリが滞ってしまったら、それが高岡さんの体調を大きく左右してしまうことになります。松本さんはしずかに言います。
「申し訳ありません。しつこく申し上げまして。失礼いたします」
 彼女が会釈をして退出しようとしたとき、「ちょっと」と高岡さんが声を出し、彼女を引き止めてゆっくりと話し始めます。
「あのね、座って食事ができたらいいだろうとか、トイレに自分で歩いて行ってみなさんに迷惑をかけなかったらいいだろうなって思いますよ。起きて歩けるようになればいいことがいっぱいあるだろう。が、タンザニアをやってみようと思うほどの動機にはならないんですよ。これは自分でも困惑しているんだ。気力っていうのかな、それが出てこないんだ。背中を押されるようなものが残念ながらないんです。それが見つからない辛さ、わかってくださいよ」
 と、70歳くらいの男性を乗せた車椅子を若い女性が押しながらヤマブキのスタッフとともに部屋に入ってきます。「高岡さん、ご面会です」
 体調を崩して入院中の息子さんが彼の娘さんとともに、高岡さんを心配して病院から面会にやってきたのでした。
 高岡さんは、目を丸くして息子さんをじっと見つめながら「まさかそんなにげっそりしちゃったとは」と小さくいいます。そして、「そうだ」と言って時計にちらりと眼をやると、松本さんのほうを向き「タンザニア、いますぐ、早く」といいます。
 松本さんはうなずいて、必要な注意を払いながら、ゆっくりと高岡さんがタンザニアの姿勢になる手伝いをします。
 そこへ、毎日回ってくる乳飲料売りのワゴンが入ってきます。
 高岡さんは、久しぶりの座位で顔が青ざめますが、乳飲料屋さんに「ちょっと」と声をかけると、息子さんのほうに顔を向け「おい、なんでも、好きなもの、買ってやる。なんでも飲んで精をつけなくちゃだめだ。父さんが買ってやるから。早く、選べ」と言って、枕元にある財布に手をのばしました。

 衰えた息子さんに乳飲料を買ってやるために思わずタンザニアをした高岡さんは、それ以来、リハビリに順調に取り組み、いまでは昼間は付き添いつきでトイレまで歩くようになり、食堂でみなと食事するまでになっているそうです。

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