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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第5回 入院生活時の贅沢とは 2004/10
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 近所の商店街の中にある床屋さんに行くのが楽しみです。顔剃りと顔のマッサージ・パックなどをしてもらうのですが、それがものすごく気持ちいいから。ちなみに顔剃りマッサージコース(全工程で一時間半ほど)は3500円也。

 昔ながらの雰囲気のその床屋さん行きが楽しみな理由がもう一つあります。それは男性客たちならではの会話をカーテンごしに聞くことができるから。顔剃りとマッサージの女性客は、ほかのお客さんから見えないようにぐるりとカーテンが引かれるので、私の存在など気づかずに彼らは、こじんまりした店内で男同士の会話をするのです。話題は、野球、天気、競馬、おいしいラーメン屋、商店街の動向、近くの空き店舗に入るお店の情報、などいろいろ。<へえー、これが世のお父さんたちの視点なのねえ>と感心したり、突然いなくなったレストランのオーナーは夜逃げしたらしいことを知って驚いたり。地域の自治会にも入らず、ご近所づきあいもしていない身として、床屋さんは貴重な情報源でもあるのです。ところで、女性客が多い美容室において男性客は、借りてきた猫のようにおとなしく、担当の美容師さんとしずかに会話するくらい。それに引き換え床屋さんにおける男性客のみなさんはとてものびのびとしています。美容室は、一年前に共学になったばかりの元女子高校に、理容室は男子校に雰囲気が似ている気がします。

 さて、先日の昼下がり、床屋さんでのこと。いつもの席に陣取り、目を閉じて顔のマッサージをしてもらいながらカーテンごしにお客さんたち(声からして三人)の会話に耳を傾けます。
 お客さんの一人が「この夏に一週間入院した」と言ったことがきっかけになり、話題は「入院生活時の贅沢とは」となりました。
客A「やっぱりねえ、特別室に入るっていうのが贅沢なんじゃない? 高いだけに設備だのなんだの豪華らしいよ。クロゼットなんかも大きいのがあってさ」
客B「俺はそこまでの贅沢は言わないな。毎回、あったかくてうまい食事ってのが、案外贅沢な気がしますよ。治療食じゃなかったのに、俺が入った病院はうまくなかったなあ。昔に比べればずいぶんよくなったって言うけどね」
客C「俺は痛くない採血や注射ができる看護婦や医者が揃ってるのがいいなあ。それと、看護婦全員がきれいっていうのもね、かなり贅沢かな、ぐふふ。今は看護師って言うんだっけね。そういえば。

 消灯時間や面会時間が決まってないのがいい、とか、いちいち尿を貯めたりしなくていいのがいい、とか、病棟独特の臭いがなくなったらいい、とか、贅沢というよりも病院への希望といったほうがいいような意見もたくさんでました。
 客Aさんが、聞く一方だった理容師さん(男性)にこう言いました。
「お兄さんは、どう思う? 健康そうだし、考えたこともないだろうなあ」
「あっ、えーと、まあ、そうっすねえ……あっ、でも、贅沢で思い出したんですけど、じいちゃん、いや、ぼくの祖父が入院してたとき、一度だけ<頼むから一つだけ贅沢をさせてくれ>って懇願したことがあるんですよ」

 彼のおじい様は、亡くなるひと月ほど前に<お風呂のお湯に首まで浸かりたい!>と言ったというのです。週に一度は病棟の浴室で、寝台に横たわったままお湯に入れる式のお風呂にスタッフ数人の手を借りて入っていたのですが、おじいさまとしては、普通に湯船の中にしゃがんでお湯に首まで浸かりたい、と強く思ったようなのです。入院生活の不満など一度も言ったことがない彼の希望をかなえてやりたいと思った家族は、病棟のナースに打診。
 理容師さんがつづけます。
「酸素は外せない状態だったし、病状とか、看護婦さんの人数とか、いろいろな関係で到底無理って言われたんです。それで祖母はあきらめるしかないと思ったようなんですが、祖父は<首まで浸かりたい>の一点張りで」
 それを受けて、お客のお父さんたちが順にしみじみと言います。
「おじいさんの気持ち、わかるなあ」「うん、わかる」「わかる」
 すると、理容師の彼。
「そのころぼくはまだ小学生で、正直、首まで浸かりたいっていう祖父の気持ちはよくわからなかったんですけど、自分に厳しい祖父があれだけ言うんだからかなえてあげたいと思いました。けど、ほんと、状況として困難なことだったらしくて」
 客のお父さんたちのため息が聞こえてきました。
「で、おじいさんは、結局、首まで浸かれないでしまったの?」と客のお父さんのひとり。
「それがですね。実現できたんですよ。看護婦さんや担当医の先生らが、決行の日を二週間先くらいに決めて、祖父の希望をかなえるために人員のやりくりとか、何度もシミュレーションとかいろいろやってくれまして。祖父は、首まで浸かることができて、あー、って、なんとも言えず気持ちよさそうな声を出したそうです。何度も、あー、って言って」
客のお父さんの一人が「よかった!」と言って拍手をするとほかのお父さんも拍手して「そうか、よかった」の声。私も安堵のため息がもれました。
 理容師の彼が業務用の声で客のお父さんに聞きます。
「カットが終わって、このあとは、肩のマッサージのあと、毛穴掃除か顔剃りになりますが、今日はどちらに致しましょうか」
「う、うん。今日はさあ、マッサージもそのあとの毛穴も顔剃りも、いいわ。やめとく」
「え? どうしてですか? サービスですけど」
「いやー、君のおじいさんの話聞いてさ、なんだか俺、贅沢しすぎな気がしてきちゃってさ。君のおじいさんに申し訳なくなってきて」
「そ、そんな、関係ないっすよ」
「いや、今日はいいわ」
 そう言って、そのお父さんは会計をして帰っていきました。さらに、あとの二人のお父さんも同じようにサービスを受けずに帰っていったのでした。
 お父さんたちの気持ち、わかる気がしました。

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