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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第52回 疑いの日々 2008/9
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 午後五時。
 某病棟の四人部屋の病室。四つのベッドにはそれぞれぐるりと仕切りのカーテンがひかれています。
 その中のひとつの、窓側のベッド。
 そのカーテンの中では、74歳になる男性の村田さんが、上腕骨骨折のため腕の鋼線牽引を行った状態でベッド上に仰向けになっています。つい今し方、七日間の疑いの日々が終わり、呆然としています。

 彼は、七日前、奥さんを乗せた自動車で買い物から帰ってきた際、自宅近くで追突事故を起こして怪我をし、この病院に運ばれました。気づいたらこのベッド上に寝ていました。
 彼が真っ先にナースに訪ねたのは、奥さんの安否です。
「奥様は、村田さんと同時に救急車で当院に運ばれ、現在は、下の階の病室に入院されています。胸椎というところを骨折したので、現在のところベッド上で絶対安静です」
 このナースの答えに、「命が助かってよかった」と安堵したのもつかのま、彼は、ナースが嘘を言っているかもしれないと疑いを持ちはじめました。ショックを受けるといけないので、しばらくのあいだは嘘を言うことにしたのではないかと。
 村田さんの受け持ちは、新人ナースの横山さんです。彼女は、村田さんが奥さんの容態について何度も訊ねることから、心配でたまらないのだろうと思い、奥さんの病室も訪ねて話をし、そのことを村田さんに報告するなどするようにつとめました。
 また彼女は、今回の怪我以前から奥さんは脳卒中の後遺症の軽い半身マヒ、村田さんは糖尿病を持ってはいるが、ご夫妻ともに元のように二人暮しをしたいという強い希望があること、別に住んでいる息子さんは心配だから退院後は二人とも施設に入ってほしいという別の希望があること、などを受けて、どのようなサービスを受けられるかなどメディカルソーシャルワーカーなどに相談しつつ、今後のための準備に熱心で、そのこともこまかに村田さんに伝えていました。
 しかし、それがまた、村田さんにとっては嘘っぽく聞こえたのです。嘘をつくときは饒舌になるものだから、ベッドサイドに行ってきたかのように話してしているのではないかと。
 また、息子さんたちが、こんな話をしても疑いが増すばかりでした。
「母さんは、まだ絶対安静が必要だって。同じ体勢でいるのが辛いみたいで、いま、少しマッサージしてきたよ。父さんのことが心配で仕方ないみたいだよ。下着は足りてるのかな、とか、ご飯はどんなものをどうやってどのくらい食べてるんだろう、とか何度も言うんだよ」
 おかしい、と村田さんは思いました。奥さんの半身マヒは軽いものの、日常生活動作には支障があり介護認定も受けている状態で、村田さんが奥さんの世話をしてきたわけです。ですから、奥さんが村田さんの下着のことやご飯のことを何度も口にするのは不自然な気がしたのです。
<そうか、ナースや息子たちみんなして結託して、私にショックを与えないように嘘を言っているのか>村田さんは、そう思ったのです。
 もちろん、完全に疑っているわけではありませんでした。いや、8割方は信じていたし、全面的に信じたかったのです。でも、どうしても疑いは消えなかったのです。
 それは、過去に村田さんがこのような嘘をついたことがあったからでした。村田さんの高齢のお母さんが病気で入院し、あまり容態がよくなかったある日、村田さんのお兄さんが事故で亡くなってしまったのです。この事実をお母さんが知ることほどお母さんにとって酷なことはない、と思い、村田さんの発案でそれを伝えないことにしました。みな一丸になって、あなたの長男は事故にあって入院中である、と伝えました。怪我の状況や、治療のことなど、みなでこまかに口裏を合わせてです。
「そうか。可愛そうなことしたな。早く退院させてやりたいなあ」
 村田さんのお母さんは、まったく疑っていない様子でした。そして、まもなく亡くなったのです。結局、最後までほんとうのことは伝えませんでした。
 彼は、お母さんにこの嘘をつきとおしたことに後悔はありませんでした。ただ、人間はこういうふうに嘘をつくものなのだな、という驚きが彼に胸に深く刻まれたのです。

 ついさきほど、受け持ちナースの横山さんが、ほほえみながら村田さんのベッドサイドにやってきました。
「村田さん、ごめんなさい。もっと早くに気づけばよかったんです。私からいろいろ話を聞くよりも、声を聞くことにまさるものはありませんよね。いま、奥さまにも別のナースがベッドサイドにお持ちしましたから、これで、いまから奥様とお話ください」
 そう言って横山さんは、PHSを出し、番号をプッシュすると、先方のナースと会話し、その後村田さんに代わったのです。
「大丈夫か? 痛いのか? うん。じゃ」
 村田さんの耳には、まぎれもなく奥さんの声がPHSから聞こえてきました。そして、みなが嘘をついているわけではないことを悟り、奥さんの無事に今度は心から安心したのです。

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