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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第53回 ある看護学生 2008/10
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 朝の5時45分。某コンビニ。店の制服姿の若い男性が、雑誌の整理の手を止め、ちらりと壁時計に目をやります。そして肩を落とし、小さくため息をつきます。このコンビニでバイト6年目になる彼は、25歳の草薙さんです。昨朝の出来事以来、元気がありません。

 昨朝の5時45分ごろ、75歳になる女性、井上さんがいつものようにこの店にやってきました。
「おはよー。今日も、一番に草薙君に挨拶できたから、気分よく過ごせそうだわよ」
「おはようございます! 顔色いいですね」
「いつになく体調いいのよ。さすが、看護学生さんはわかるんだね。いや、息子みたいなもんだからかな」
 笑顔になった草薙君は、井上さんがレジに置いたホット甘酒を手にとり、レジを打ちます。彼女が、早朝のこの時間にやってくるのが日課になって3年たちます。
 井上さんは、草薙さんがバイトをはじめたときから、すでに店にちょくちょく買い物にきているお客さんでした。それが、しばらく見えなくなり、3年前に再び顔を見せた彼女はとてもやつれていたのです。来店する時間も、以前はだいたい決まっていたのに、深夜や早朝などまちまちでした。
 それをなんとなく心配していた草薙さんに、ある日の朝4時頃やってきた彼女はこう言いました。
「夫があの世に行っちゃって、あたし一人になっちゃってね、ふさいで、どこにも出かけないのはいけないから、こうしてきてるの」
「…………」
「あら、あなた、そんなに悲しい顔してくれて…、ありがとう。実は最近友達が小さな犬をくれたのね、だから、その犬の散歩がてらに、早朝とかにここにやってきて、何かを買うっていうのがいいかな、と思ったの。それなら毎日必ず外出するから、運動になるしね。でも、犬をお店の前につないでおくのはほかのお客さんの迷惑だなって思ってね。犬の散歩はさしあたり、バイトの人に頼んでるのよ、それとね…」
 彼女は暮らしについていろいろ話したのでした。
 草薙さんは、<この人は、ふさいだ気分からこれから抜け出さなければならない、それにはまず暮らしにリズムを作らなければならない>と思い、彼女に言ったのです。
「早朝なら、ほとんどお客さんは来ませんから、犬の散歩をかねてぜひ、毎朝、来てください。毎日同じ時間がいいと思います。犬は店の前に縛っていただいていいです。僕が許可しますから、お願いします!」
「お願いしますって…」
「実は僕、大学受験の時期に母を亡くして、自分でも驚くほどふさぎこみ、受験はせずフリーターになりました。復活するまでの経験があるので、ひとごととは思えなくて」
 かくして、井上さんは犬を連れて毎早朝に来店するようになり、徐々に元気になったのです。井上さんは一度「草薙君はふさいでいるあたしを看護してくれたんだわ」といったことがあり、彼が看護師を目指すきっかけとなったのでした。
 そして、昨日の早朝のことです。草薙さんが井上さんの買い物のレジを打っていると、厳つい外見の中年男性が目を吊り上げて入ってきて、いきなり井上さんに怒鳴ったのです。
「あんたか! 犬を店先に縛っているのは。俺は犬アレルギーなんだよ! どうするんだよ、これから症状が出たら。なんて非常識なババアなんだ! 責任とれ! ババア!」
「お客さん!」と草薙さん。「犬の件は、僕が許可したんです。ご意見があるなら僕におっしゃってください」
「お前、どうせバイトだろ。店長を呼べ。いまここにいないなら、電話して呼び出せ!」
 すると井上さんが、叫ぶような声でまくし立てたのです、それも草薙さんに対して。
「なによ! かっこつけて、いい人ぶって、したり顔でさ。あんた、バイトの分際なんだし、実際は犬の許可なんかしてないじゃないのよ。ばかじゃないの。調子に乗ってんでしょ。がんばってバイトしてます、勉強もしてますってさ、もう、やだ! こんな店、金輪際、来るもんか! ばーか」
 言いながら彼女は店を出て、犬をほどいてすたすたと帰っていきました。客の男は、井上さんに圧倒されたようで、しゅんとなり「なんだ、あのババア」と呟くと、缶コーヒーを買って帰っていきました。
 その後、草薙さんは、自分の浅はかさを思い、落ちこみました。犬を店前につなぐのを許可したのが自分でも、飼い主に非難が向いてしまうのだから、もっと、別の方法で彼女が生活のリズムが作れるように考えればよかったのだ。ナースの卵として、多少いいかかわりができていると有頂天になっていたから、井上さんからあんな言葉が出てきたのだろう。これがきっかけで、彼女がお店にはこなくなり、生活のリズムが崩れてしまったりしたら、それは僕の軽率な判断が原因だ。
 草薙さんは、井上さんにとにかくわびたいと思いましたが、思えば、彼女の住所の連絡先も知らなかったのです。<僕は、実に中途半端で無責任なかかわりをしていた>とさらに反省することになりました。

 草薙さんは雑誌を整理しながら、ふたたび時計を見ます。井上さんがいつもやってくる時間から5分が過ぎています。言葉どおり、彼女はもう来ないのだろうか。
 と、窓ごしに、井上さんがニコニコしながらやってくる姿が、草薙さんの目に入りました。そして彼女は店内に入り、ケロとした様子で言ったのです。
「ああいうときはね、相手を上回る声で、意外な反応をして、けむに巻くのがいいのよ。あの男、すぐ帰ったでしょ。ねっ、大成功! でも、犬を縛っての買い物は卒業することにした。コンビニと犬の散歩は別にやることにしたわ。それくらい元気になったしね。なに、唖然としてんのよ。昨日私がわめいたことなんて気にしないでね。真意じゃないのくらい、息子なんだから、わかってるよね、これからも毎朝、くるからね、草薙君が勉強が忙しくなって店にいないときにも」
 二人は、どちらともなく自然に手が出て握手したそうです。

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