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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第54回 水着姿の患者さん 2008/11
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 午後。路肩に駐車中の軽自動車の運転席に女性が座っています。
 呆然とした様子の彼女は、パック入りのミルクにストローを挿し、一気に飲み干すと、ほっとしたように長いため息をつきます。
 彼女は、訪問看護師になったばかりの大野さん、27歳。最近まで、病院の救急外来や集中治療室に勤務していました。
 大野さんは、就職面接のときに、訪問看護ステーションの所長から念を押すように言われました。
「訪問看護は、のんびりもできないし、お気楽でもないのよ。時間に追われるし、常に自分の能力が試されているのを感じることになると思うわ」
 運転席の彼女は、この言葉を思い出し、深く頷きます。
 大野さんは、ついさっき、訪問先の板橋さん宅をあとにしてきました。いまは、次の訪問先へ移動する前の5分間の休憩中です。先週の一週間は、研修という形でベテランについて訪問していた彼女ですが、今日からは一人になりました。今朝は緊張と不安がありましたが、午前中の訪問が思いのほかスムーズに進んだので、かなりリラックスしたのでした。
 そして午後となり、彼女は板橋さん宅を訪問したのです。
 患者は、板橋辰男さん、92歳。検査で発見された腹部大動脈瘤で入院していましたが、手術はせずに降圧剤と安静で血圧をコントロールするという保存的な治療をすることになり、自宅療養をすることになった方です。
 板橋さん宅に入り、彼の姿を目にした大野さんは、ぴたりと動きが止まってしまいました。ベッド上に横になるなど安静にしている様子を想像していたのですが、実際に目に入ったのは、あまりにも意外な光景。彼は、競泳用の水着をはき、キャップとゴーグルをつけ、つまり裸同然の姿で体操をしていたのです。
 大野さんは、その様子にぎょっとしたあとぞっとし、すぐにでも身体の保温をして安静にしてもらわなければ、とあわてたのでした。彼女は、救急外来や集中治療室勤務で、大動脈瘤破裂の患者さんを何人も見てきたのです。彼らが助からなかったそのときのシーンの断片がパッパッパッと頭に浮かび、そのときのご家族の声も思い出され、大野さんは咄嗟にベッド上の毛布を手に取り、板橋さんの背後から抱きつくような動きで彼の身体を毛布で包みこみました。もちろん、板橋さんを驚かせないように声をかけながら。
 大野さんは、ベッド上に横になっていただいた板橋さんの血圧測定などのチェックを終えて記録すると、静かだけれど真剣な声で説明しはじめました。裸になったり、体操をしたりするのは、血圧の変動を招き、それが大動脈瘤破裂を招く可能性があるということをです。板橋さんは、動脈瘤による自覚症状はほとんどないため、まずは病状の理解をしていただき、内服薬と安静の実行をしていただくことが、さしあたり一番の看護目標なのです。それと、栄養状態もよいとは言えず、食事バランスを考えた食事を摂っていただく必要もありました。また、この室内は、つまずいてうっかり転倒――転倒による打撲や捻挫や骨折は、特に高齢者にとっては命取りになる可能性が高い――してしまいそうな要素が多いことも大野さんは気になっており、それらを順に話してゆきました。
 しかし、板橋さんは聞く耳を持ってくれなかったのです。板橋さんはこう言いました。
「いやはや、来ていきなり、説教とはな。私は八十五まで、ほぼ毎日、プールで泳いでいたんだ。いまは泳がずとも、泳ぐ格好になって体操するのが日課。それをしないとすっきりしない。だからやっていたんだ」
「しかし…」大野さんは、なんとか彼を説得したいと、たとえ話を用いながら説明し続けました。ここで病状を理解して安静を受け入れてもらえなかったために、動脈瘤が破裂してしまい、そして…という最悪の事態が起きるのは低い確率ではないのです。大野さんの頭の中では、ふたたび救急外来や集中治療室での場面がフラッシュバックし、未然に防ぐ大きな責任を感じます。およそ30分で、板橋さんの訪問は終了しなければなりません。そのあいだに、板橋さんに理解していただかなければならないのです。救急外来などのときとは、まったく別種の強い緊張を感じ、腋の下にひんやりとした汗を感じます。
 板橋さんは演説のように、これまでの人生で、いかに自分流に自己管理をしてきたのか、長生きできたのはその管理の良さ証明しているのだと、大野さんに語りはじめます。
 大野さんは、その自己流の管理は、いまの板橋さんの病状には悪影響だということを、なんとか言葉を駆使して伝えようとします。しかし、聞き入れてもらえません。
 時計をみると、かなりの時間がたっており、大野さんはますますあせります。<私は訪問看護を甘くみていたのかもしれない。私には看護師としての説明や説得能力がないのかも…。一体どうしたらいいんだろう。このまま帰って状況を報告するしかないのかな>
 と、板橋さんの妻が「すみません、ちょっと」といって大野さんを呼び、「まずね、長生きできてすごいすごいって言ってやってくださいな。そしたら聞く耳持つと思いますので」と耳打ちしたのです。
 そのとおりでした。板橋さんは、長生きのためにこだわってきたことや実行してきたことには大きな誇りを持っており、それにまず敬意を払うことが人間関係としてとても大事なことだったことが大野さんはわかったのでした。
 「すごいですねえ」という大野さんの言葉を聞いてから彼は、彼女の説明にうなずき、さしあたり、水着で体操するのは休止すると約束してくれたのでした。

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