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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第55回 庭の赤いゼラニウム 2008/12
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 秋の平日の午後。ほどよく暖かい穏やかな天候です。
 看護師の武田さん(26歳・女性)が、メモを片手に閑静な住宅街の路地を歩いています。彼女が勤務している緩和ケア病棟に、以前に入院していた長坂さん宅に向かっているところです。彼女がこんなふうに患者さん宅を訪ねるのははじめてです。

 長坂寛男さんは、ちょうど一年前、彼女の病棟で息を引き取りました。
 先週、武田さんの同僚が、長坂さんの奥さん(72歳)にばったり会い、そのときの「よかったら、武田さんにぜひ一度遊びに来てほしい」という伝言とともに住所のメモを受取りました。
 今日の武田さんは、お休みです。午前中に買い物に出た際に、近所の庭先の赤いゼラニウムが目について彼女は、午後に長坂さんを訪ねてみよう、と思ったのでした。
 長坂寛男さんが入院していたころ、彼の奥さんが話してくれたことを思い出したのです。
「私ね、ゼラニウムが大好きなの。とくに、朱が混じったような赤い花をつけるやつが好き。フランスのプロバンス地方なんかの写真に写ってる白い家々の窓辺に咲いてるあの花、わかるでしょ。ゼラニウムってすごくシブトクそして逞しい花なのね。挿し木で増やせるんだけど、ちぎれて切れはしのような状態になっても根付くし、手入れせずに放っておいたって、ちゃんと花をつけてくれるの。あの赤い花を見ると、なんか、見てるこっちもシブトク逞しくなれる気がしてね、自分が割れちゃいそうなとき、新しいゼラニウムを一鉢買ってくるの。で、最近、急に鉢の数が増えちゃったの、ふふ。きつい時期はね、うちの庭のゼラニウムがとても増えるのよね」
 そう言って、笑顔になった長坂さんは、とても疲れた様子でした。心身ともに疲れて、「割れちゃいそう」な日々なんだな、と武田さんは思いました。
 そのころ、奥さんは、がんの末期で入院中のご主人のほかに、同居している義母の世話があり、疲弊している様子でした。染める時間がないらしい髪は毛先だけが黒くぱさぱさで、肌はくすんでいました。「割れちゃわないように」子供さんたちの協力やケアサービスの利用なども受けてはいても、看病や世話の中心にいる彼女の負担は大きかったようでした。武田さんらナースが心配して声をかけると彼女は「ぎりぎりまで私のできることをしてあげたいんです」と笑顔になったのでした。
 武田さんは、今日の午前中にそれを思いだし、ずっと気になっていたことを伝えようと決めて出かけてきたのです。
 彼女がずっと気になっていたこととは・・・ご主人の臨終直前の場面での説明についてでした。臨終の直前には、その時期の特徴的な経過として下顎呼吸や喘鳴などが起きます。見守るご家族は、その様子を「苦しそうにしている」と思い、「最期にとても苦しんだ」という辛い印象を持つことがあるのですが、医学的に、その状態において本人は苦痛を感じる状態にはないと言われているのです。
 長坂さんが危篤となり、その状態になった際に、奥さんが肩をさすりながら、「お父さん、苦しいんだね、可愛そうだね、お父さん、苦しいんだね」とくり返し声をかけていました。武田さんは、長坂さんに使用中の医療機器の調節などを手早く行う必要があり、その作業をしながら、奥さんに、ご主人は苦しさを感じていないと思われる状態であることを話しました。しかし奥さんは、まったく聞こえていない様子で、同じようにご主人に語りつづけたのです。その後、ご主人はご臨終を迎え、あわただしく退院してゆきました。きちんと、説明できなかったことを武田さんはとても悔やみました。
 奥さんがもし、ご主人の臨終直前のあの様子から「最期に苦しんだ」と思っているとしたら、とても残念なことと考え、これを機会に改めて伝えたいと武田さんは考えたのです。

 武田さんは、長坂さんの自宅前に着いたようです。
 門のチャイムを押そうとしたそのとき、彼女の動きがぴたりと止まってしまいます。長坂さん宅の庭には、あふれんばかりのゼラニウムの鉢があり、ぎっしりと赤い花を咲かせていたのです。
<こ、これは、いま、奥さんが割れちゃいそうな日々だということ? もしかして、あのとき、きちんと私が説明できなかったためにご主人が最期に苦しんだという印象になってしまって、それも関係している?>
 よく見ると、ゼラニウムの鉢の中に奥さんらしき女性がしゃがみこんでいます。その背中は、とても小さくて、ぐっと老けたように見えます。武田さんの表情が暗くなります。
 と、そのとき、家の中から庭にもうひとりの女性が出てきました。すると、そちらの女性が長坂さんの奥さんだったのです。一年前よりとてもふっくらとして、いきいきとしていました。
 そして、一年ぶりに奥さんと武田さんは再会。
 しゃがみこんでいた女性は、奥さんのお姉さんでした。また、当時お世話していた義母はその後亡くなり、現在は一人暮らしだということもわかりました。それとゼラニウムは、知り合いに分けてあげるために増やしていることも。
 武田さんが、気がかりだったことについて話すと、長坂さんは、あのときの場面を思い出したのか、涙ぐみながら言いました。
「あなたの声、あのときは聞こえてなかったのだけど、あとになって思い出したの、あなたが一生懸命言ってくれてたこと。それでね、あのときは主人は苦しくはなかったのだなって思うことができたのよ。その御礼を言いたかったし、ゼラニウム、よかったら、もらってほしいと思っていたの」

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