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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第56回 一本の樹の絵画 2009/1
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 今朝、人間ドック専門外来のナースとしての寺田さん(29歳)の仕事が、いつものようにはじまりました。
 彼女が人間ドック専門外来のロビーに行くと、人間ドック専用の検査着姿のひとりの男性が、壁にかけてある絵――ソフトな色使いで一本の樹が描かれている――をじっと見つめていました。
「おはようございます!」
 寺田さんが声をかけると、その男性は小さい声で「よろしくお願いします」といいながら彼女に丁寧なお辞儀を返しました。彼の表情がとても固く、目の動きの少ないことが、寺田さんは気になりました。
 その数分後、ドックの申し込み者の3名全員がロビーに揃い、寺田さんは彼らの前でスケジュールなどの説明をし、それぞれを個室(検査の合間に待機していただくベッド付の部屋)に案内しました。
 まずはひとりひとり問診を取るのですが、寺田さんは、予定していた順番を変更し、ロビーで絵を見つめていた男性(三浦さん、54歳)を最後の3番目にしました。ゆっくりと話を聞く必要があるかもしれないと判断したのです。人間ドックを受ける人は、「なにか病気が見つかったらどうしよう」という不安や緊張があるのは当然で、検査がスタートする朝には、それが顔に出ている人も少なくありませんが、スケジュール説明が終わるころには、ほとんどの人の表情はやわらかくなるのです。しかし三浦さんは、はじめに挨拶をしたときとまったく変わらない表情だったため、心配になったのです。
 そして、三浦さんの問診の時間となりました。
 寺田さんが部屋に入ると、三浦さんは姿勢よく椅子に座っていました。きれいに畳まれた洋服ときちんと揃えて置かれた靴が見え、几帳面な方なのだな、と寺田さんは思いました。
 寺田さんは、三浦さんの斜め前に座り、質問をはじめました。
「今日の体調はいかがですか? 今朝はだいぶ冷えましたが」
「良好です」と三浦さんは、小さな声、ぶっきらぼうな言い方で応えました。
「それでは、今日のドックにかんして、あるいはほかになにかご心配な点はありませんか?」
「特にないです。ドックは毎年受けていますから」
 寺田さんは、三浦さんが受け答えをしたあと、視線を目の前のテーブルに落としたときに、どこか思いつめたような目をすることに気づきました。しかし、体調は良好で、心配なことはないと彼は言っているのです。ここでしつこく聞くと、返って心を開いてくれなくなる可能性が高いので、それはやめて、丁寧に予定の問診をしていくことにしました。
 寺田さんは、家族構成や家族の病歴、そして生活習慣などをひとつひとつ、答えをせかさないようにたずねました。
 三浦さんは、37歳時に離婚。妻子は家を出てゆき、その後は病気がちな父親と母親と三人暮らし。父親は入退院を繰り返し、三年前に亡くなった。その後病状が悪化した母は自宅療養を続けているが、かなり手がかかる。気性の荒い母は、息子の三浦さんに八つ当たりする毎日だといいます。
「睡眠は毎日、どれくらい取れていますか?」
「仕事がハードになっており疲れてはいるんですが、眠れないため、お酒を飲んで寝ることがあります。ストレスがあるんだと思います」
「ストレスはどこで一番お感じになるのでしょうか。お仕事にもいろんな場面があると思いますが」
「………」
 三浦さんは黙ってしまいました。寺田さんは、そのストレスのおもな原因を知ることで、改善のための提案ができるかもしれないと思ったのです。しかし、込み入ったことは聞かれたくない人もいます。三浦さんもそうだったのかもしれない、と心配になります。
「あっ、そういえば、関係ないのですが、今朝、ロビーにある絵をご覧になっていましたね、あの絵に描かれている樹は、一体なんの樹なのか、で意見が分かれるんです。三浦さんは、なんの樹だと思いますか?」 
 室内の硬くなった空気を和らげようと、寺田さんは絵の話をしました。
「ああ、あの絵ね。なんの樹かはわからないが、ずいぶんと枝が多く、葉がたっぷり茂っていて、重そうだなと思いましたが…」
 坦々と話していた三浦さんでしたが、<が…>のところで喉につまったような声になりました。それを受けて寺田さんが口を開こうとすると、三浦さんが話を続けたのです。
「一番ストレスなのは、自宅です。病気の母を気の毒には思いますが、あまりに私に八つ当たりするし、こまかな世話も必要だし…そもそもは、母が私の妻子を追い出してしまったんです。もう、限界です」
 三浦さんの目から涙が溢れ出しました。
「自宅は心身を休めるところですからね、そこがストレスだというのは辛いですね」
 寺田さんの言葉に三浦さんは大きく肯き、そして号泣したのです。声がほかの部屋にも届いてしまうのではないか、と心配になるほどの号泣でした。彼は声をつまらせながら「こんな話、出来る人いませんから」といいました。

 ドックが終了し、帰ろうとする三浦さんは、朝とはがらりと違い、笑顔が見られすっきりとした表情をしていました。寺田さんは、彼が利用できそうな相談窓口などを紹介。彼は御礼を述べ、お辞儀をして帰っていきました。
 ICU、内科病棟、神経科病棟と勤務してきた寺田さんは、半年ほど前に異動してきた人間ドック専門外来では看護の手ごたえを感じることができないのではないか、と考えはじめていたのですが、そうではないことがわかったのです。

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