Archive

小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第58回 日めくりカレンダー 2009/3
dotline

 日曜日の朝。都内の病院の外来に勤務しているナースの田村恵津子さん(49歳)が、ひとり、遠方の実家へ向かう新幹線に乗っています。
 実家では、恵津子さんの母の静子さん(75歳)が一人暮らしをしています。一年前に親友が亡くなって以来、静子さんは元気をなくし、それを心配した近所の三枝さんの奥さんがときおり訪ねてくれている状況です。

 半年ほど前、近所の三枝さんの奥さんから、恵津子さんのところに昨夜電話が入ったのでした。
「余計な心配をさせちゃうかもしれないからさ、連絡するかどうか迷ったんだけど、やっぱりなんとなく気になって」
 静子さんの顔色ややりとりはまったくいつもどおりだということでした。
「でもね、ひとつだけ気になったのは、日めくりカレンダーなのよ。日めくりって、私たちもうっかりめくるの忘れちゃったりすること多いけど、静子さんはね、ずっと先までごそっとめくりとってあるのよ。今日、お宅に寄らせてもらって、お茶をご馳走になったんだけど、今日は8月20日なのに10月の半ばまでめくりとってあるのよ。そんなことする人みたことないから、どうしたのかなと思って、なにげなく静子さんに<ずいぶん先までめくっちゃったわね>って言ったら、<まあね>って微笑むのよ。なんか、それ以上聞けなかったわ」
 それを聞いて恵津子さんはどきりとしました。もし日にちがわからなくなってそうしているとしたら、病気を疑わなければならないと思ったからです。時間、場所、人物や周囲の状況を正しく認識することを見当識といいます。その見当識に障害が起こった場合、認知症、脳障害、うつ病、などの可能性もあるのです。以前、病院の物忘れ外来に勤務したことのある恵津子さんは、一人暮らし、刺激がない暮らし、高齢者、という認知症になりやすい人の傾向を知っています。静子さんはすべてがそれにあてはまるため、恵津子さんは胸のうちで心配していました。認知症予防のために、ケアとして日めくりカレンダーの使用を勧めたりもします。はっきりしっかりしていた静子さんではありますが、昨年のお正月に恵津子さんは実家に日めくりカレンダーを持っていったのでした。静子さんが好きな季節の草花の写真がついたものです。そのとき静子さんはこう言って喜びました。
「あらー、そういえば、うちって日めくりのは使ったことなかったわね、毎日、草花の写真が変わるのが楽しみだわねえ。めくるの、忘れないようにしなきゃ」
 三枝さんの問いに静子さんが<まあね>と微笑んだというところに、恵津子さんは不安に感じました。なんとなく、外来に来ていた認知症の高齢女性の受け答えにだぶる印象があったからです。
 それから恵津子さんは、静子さんに頻繁に電話を入れるようになりました。実家に会いに行きたいと思いながらも、受験生の子供や残業続きの夫を持つ彼女は、そう簡単に里帰りすることができなかったのです。
 恵津子さんが頻繁に電話するようになったある日、静子さんはこういったのでした。
「えっちゃんさ、もしかして、あたしがぼけたとでも思ってるの? 前はこんなに電話を寄越さなかったでしょ。それに今日は何日だとかなんだとかテストするみたいなこと聞いてきてさ、はっきり言って気分悪いわよ」
 それから恵津子さんは、心配であっても頻繁に電話することは控えるようになりました。
 恵津子さんは一人娘で、ゆくゆくは実家に戻り、結婚後も両親と一緒に暮らそうと思っていました。しかし、結婚を決めた相手の事情で、そうはできなくなってしまったのです。父親が亡くなり、母親の一人暮らしになってからは余計に、一緒に暮らしていないことを後ろめたく感じている恵津子さんでした。
 近所の三枝さんの奥さんからは、その後二回ほど同じような心配の電話が入り、先の年末年始には、静子さんに都内に出てきてもらい恵津子さん一家と過ごしました。そのときには、静子さんはとてもしっかりしていて、これまでの心配は無用だったのかも、と恵津子さんは思ったのです。日めくりカレンダーのことはたんなる気まぐれでやっていたことなのだろう、と恵津子さんは考えることにしました。
 しかし昨晩、また三枝さんの奥さんから電話があったのです。
「今日、おじゃましてお茶をまたご馳走になったのだけど、今年の新しい日めくりカレンダーがね、また、例によって大幅に先までめくりとられてあったのよ。やっぱり心配な感じ。えっちゃん、一度こっちにきてみたほうがいいわよ」
 それで恵津子さんは、いま行かないと後悔するような気がして、取り急ぎ出かけてきたのです。
 
 遅い午後、恵津子さんは実家に着きました。そしてすぐに居間にかけてある日めくりカレンダーを確認すると、今日は2月22日なのに4月16日になっていました。――あっ、もしかして…。その日は、恵津子さんの誕生日です。嬉しそうに台所に立っている静子さんに尋ねます。
「母さん、どうしたの、日めくりカレンダー、私の誕生日までめくっちゃって」
「あっ、気づいた? うふふ。実はさ」
 静子さんは、亡くなった夫、娘の恵津子さん、自分、亡くなった勝子さん(静子さんの親友)の誕生日、それから自分たちの結婚記念日を、忘れたくない日だと考えて、ほかを飛ばしてめくっておくようにしていたことがわかったのでした。
「毎日の日にちはさ、新聞でだってなんだってわかるじゃない。だから、日めくりのほうは大切な日にしておくわけよ。そうすると、なんか、幸せな気持ちになるのよね。あなたも、やってみなさい。私がぼけたかもなんて心配する前にさ」
 恵津子さんは首をすくめて「はい」と返事し、安堵したそうです。

ページの先頭へ戻る