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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第59回 謝罪 2009/4
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 歩行者と自転車のみが通行を許されている某遊歩道。その両サイドには桜並木があり満開を迎えています。道沿いのベンチでは、OLたちが昼休みを利用して、花見をしながらお弁当を食べています。
 その道を、ひとりの女性が猛スピードで自転車を走らせています。訪問看護ステーションのナースの米川聖子さん(45歳)です。
 彼女が業務用の自転車に乗ってここを通るのは5年ぶりで、<そうだ、あの日も桜が満開だったな>と心の中でつぶやきます。

 5年前、彼女にとっては忘れることができない出来事がありました。
 その日、米川さんはこの道を通って、須藤正一さん(当時75歳)宅をはじめて訪問したのでした。
 当時、須藤さんは病院から退院したばかりでした。誤嚥が元で肺炎を起こし、しばらく入院していたのです。妻のサポートによって日常生活動作全般は自立していたものの、持病の心臓病の管理指導や誤嚥の予防や嚥下訓練などが必要だと考えられ、米川さんが訪ねることになったのです。須藤さんの昼食時に合わせて訪問し、彼が入院中に専門家が評価した嚥下の状態を確認し、状態に合わせたケアの計画を立てることになっていました。
 米川さんが訪れてみると、須藤さんは少し気難しそうではあるものの彼女を受け入れている様子でした。彼女の質問にはひとつずつ応え、アドバイスにも耳を傾けてうなずいていました。須藤さんの奥さんは傍らで穏やかに微笑んでいました。
 しかし、米川さんがはじめての訪問を終えて帰ろうとするそのとき、須藤さんは憮然とした表情になってこう言ったのです。
「あなたにはもう来ないでほしい。あなたは私の自尊心を傷つけた」
「は?」
 米川さんにとってあまりにも意外な言葉でした。看護職は、患者さんの食事介助や排泄介助や清潔介助など身の回りのケアをする中で、ともすれば保護者のような態度や言動になってしまうことがあり、それが原因で患者さんに不快な思いをさせてしまう可能性があります。たとえば、孫のような年齢のナースが、高齢の男性患者さんのケアをする際に「おじいちゃん」などと呼びかけてしまうのは、たとえその言葉に親愛の情がこもっていたとしても、患者さんの尊厳を守るためにはよろしくない対応とされています。米川さんは、その点を強く意識してキャリアを積んできました。言葉遣いや態度に細心の注意をはらってきたのです。ですから、一体なにが須藤さんの自尊心を傷つけたのか見当がつきませんでしたし、たいへん困惑しました。
「あの、どんな失礼をしてしまったのでしょうか」と彼女は率直に須藤さんに尋ねました。
「そんなことは言いたくない。勉強中の学生ならいざ知らず、ベテランであろうあなたにおしえたくなんかないですよ」
 米川さんは、須藤さん宅の玄関に入った時点からのやりとりをこまかに思い出し、自分の何が悪かったのか見つけ出そうとしましたが、わかりませんでした。
 次の訪問へと移動しなければならない時間となり、結局米川さんは、「具体的にどんなことが失礼にあたったか、正直、わかりません。しかし、私のなにかが須藤さんにご不快な思いをさせてしまったこと、深くお詫び申し上げます。申しわけありませんでした」と述べて深く頭を下げました。
 すると、須藤さんはこう言ったのです。
「あなたの謝罪は形だけだ。自分の否は心から認めているわけではないし、この場を済ませるために便宜上謝罪しているだけだね。ほんとうに悪かったと思った暁には、必ず心から謝罪してほしいですね。とにかく、今度からはあなたではない人が来てください」
 ステーションに戻った米川さんがこの出来事を報告すると、みなは米川さんに否があるとは思えないという見解で、さしあたり、次回からは別のナースが訪問することになったのでした。
 その後、米川さんは何遍も何遍も、須藤さん宅での自分の言動やふるまいを振り返りチェックしたのですが、彼の尊厳を傷つけた原因はわかりませんでした。そしてそのうち、自分には否がなかったかもしれないと思うようになったのです。
 昨夜のことです。風邪をこじらせて寝込んでいる高校生の息子さんにお粥を持っていったとき、米川さんは息子さんの言葉にはっとしたのです。
「母さんさ、前から言おうと思ってたんだけど、たまに、<よしよし>って子供にするみたいなリズムとニュアンスで、肩をぽんぽんって叩くけど、それ、やめてくれないかな。たぶん癖になってて無意識になってるんだろうけどさ。なんか、かちんとくる」
 言われてはじめて気づいた癖でした。そして、5年前の須藤さんの自尊心を傷つけたのはこれではないか、と思いかえしてみると、須藤さんが食事を終えたときに、励ましの言葉をかけながらこれをやっていたことを思い出したのです。これだったのか、失礼なことをしていたな、と申し訳なさで一杯になりました。
 それでいま米川さんは、彼に心から謝罪するために必死に自転車をこいでいるのです。
 
 須藤さんは「ああ、そんなことがあったかもしれないな。しかし、あんた、ずっと気にしていたのかね、驚いたね、ハハハ」と笑い飛ばしたので、米川さんは拍子抜けしてしまったそうです。

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