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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第6回 きっかけは通所看護の話 2004/11
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 訪問看護に従事しているマリコ ( 35歳、看護師 ) が言いました。
「いやはや、長い二ヶ月だったわ」
 そして小さなため息をひとつ。さらに一拍おいて彼女は、もうひとつため息を追加しました。8月のはじめから9月末まで、訪問先の患者さん、そしてそのご家族とぎくしゃくした関係が続いたのだそうです。

患者は、石神泰司さん(仮名、以下の名前も仮名)、72歳。
軽度の左半身マヒ。栄養は胃ろう(チューブを胃まで挿入するために腹部に開けられた穴)からの栄養剤補給がほとんど。仙骨部(お尻の真ん中)に褥創(床ずれ)がある。
療養生活援助の全般は妻の治子さん(70歳)が受け持ち、一人息子の健司さん(39歳)はおもに経済的なやりくりを受け持っている。都内の一戸建てに住んでいる三人家族。
 マリコは、半年前から週に2回ほど、この石神家を訪問するようになった。石神泰司さんは、ぽつりぽつりとオヤジギャグを言ってマリコを笑わせ、妻の治子さんは「頼りになる娘みたいね」と言ってはマリコの肩に額を乗せるマネなどをした。たまに顔を見せる息子の健司さんは、介護にかかるコスト的なことなどをマリコにフランクに相談してきた。
 マリコは、石神家の人々との人間関係が良好なだけではなく、石神さんのケアの目標である「胃ろうを化膿しにくくする」「口腔ケアの充実」「褥創の治癒」などが、かなり良い形で進んでいることにも張り合いを感じていた。
 そんなある日のこと、いつものようにケアをしながらマリコは「通所看護()というものがあり、近い将来、石神さんも利用できるかもしれない」というようなことを話した。すると妻の治子さんは「それ、いいわねえ」と言って手を叩いて喜んだが、泰司さんは不機嫌になってしまったのである。8月のはじめのことだった。それから一ヶ月間、石神泰司さんの不機嫌が続いた。

 不機嫌になってしまった石神さんにマリコは訊ねた。なにか失言があったのか、通所看護というシステムに不安が生じたのか、だとしたらどんな点が不安なのか…などなどいろいろ。しかし石神さんはなにを聞いても「いや」「別に」を繰り返すだけでぶすっとしてしまうのだった。
 妻の治子さんは、「なにへそ曲げているんでしょうね」「大人気ないわ」と陰で夫を非難した。マリコが帰る際、玄関先で「ごめんね、失礼な態度をとって、夫の代わりに謝ります」と言って何度も頭を下げたりもした。
 かくして、石神さんのケアをするおよそ一時間半は、シーンと気まずい雰囲気に包まれるものとなってしまった。この事態が、ケアのマイナスになってしまうかもしれないと考えたマリコは、ナース交替の希望を石神泰司さんに率直に聞いてみた。マリコ自身、気まずい雰囲気から開放されたいという気持ちもあった。患者とナースにも相性の良し悪しはあるんだし、とマリコは心の中でつぶやいた。
 石神さんの返事は「交替の必要はない」だった。妻の治子さんは前にまして、玄関先でマリコに頭を下げるようになった。「あなたは何も悪くないんだからね、続けてね」と。
9月に入りマリコはもう一度石神泰司さんに話した。気まずい空気は続いていた。

「やはり、他のナースに交替したほうがよろしいのではないでしょうか。我慢なさらなくていいんですよ。そういうことはありますし。それに、通所看護がはじまったとしたら、そちらも担当の私がやらせていただくことになるわけですし、お嫌でしたら今のうちに」
「ん? そうなの?」
 それまでぶすっとしていた泰司さんが、はっとしたように目を丸くして言った。マリコが答える。
「はい。交替はめずらしいことではないんですよ。どうぞ遠慮なくおっしゃってください」
「いや、そのことではなくて……」
「は?」
 マリコが首をかしげると、そばにいた治子さんも同時に首をかしげた。
 すると、泰司さんがぼそぼそと言ったのだ。
「通所看護というほうでもマリコさんが担当してくれるんだね」
「ええ、そうなりますね」
「そうだったのか」
 そう言うと泰司さんは思わずといったふうにニヤリとすると、右手でしずかにタオルケットを引き上げ自分の顔を隠した。この瞬間から泰司さんの機嫌は直った。
 治子さんが顔をしかめて低い声で言った。
「あなた、通所看護というやつに行ったらお気に入りのマリコさんにやってもらえなくなると思ってずっと拗ねたってわけね。ひと月も。嫌だわ。気持ち悪い。エロジジイって感じ!」
 今度は治子さんが不機嫌になり、マリコに対し「いえ」「別に」しか言わなくなってしまった。泰司さんのときよりも、気まずい空気が室内に充満するようになってしまった。それがひと月つづいた。
 9月の末、息子の健司さんに縁談話が舞い込み、それを大いに喜んだ治子さんの不機嫌はどこかに吹き飛んでしまったのだった。そしてマリコは、以前のように和やかな雰囲気で泰司さんのケアを行えるようになったのである。

 以上の経過を聞き終えた私がマリコに「とにかく一段落して、よかったね」と声をかけると、「まあ、そうだけど・・・」とマリコは目を伏せました。
「そこで話が終わればよかったんだけどね。実は息子の健司さんにね、<縁談話の人とは結婚したくない。結婚してほしい>っていきなり言われて・・・。私はそんな気は全然ないから即丁重にお断りしたんだけど、以来、息子さん、元気なくなっちゃって」
 なるほど、はじめにマリコが追加でついたため息の訳はこれだったようです。

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