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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第60回 振り向いたときの写真 2009/5
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 天気のいい昼下がり。結城京子さん(70歳)が、自宅の縁側に腰掛け、手に持った写真立てを、目を細めて見つめています。縁側に面した中庭では目にあざやかな赤と白のさつきが花盛りです。
 写真立てには、亡くなったご主人・英治さんの写真が入っています。京子さんがいま座っている場所に、50歳のころの英治さんが座り、呼びかけに振り向いたところが写っています。痩せ型で少し猫背の彼は笑い出す直前のような、驚きや好奇心や安心がまざったような表情をしています。
 英治さんが振り向いたときに見せるその表情が京子さんは大好きでした。それも彼女が呼びかけて振り向いたときの彼の表情がとくに好きでした。それで彼女は、結婚以来何度も、背後から彼に声をかけてはカメラのシャッターを押したものでした。その写真のうちの一番のお気に入りを、いま彼女は眺めているのです。
 京子さんと同い年の英治さんは脳梗塞になり、60歳のときから5年間、自宅療養をしました。ナースとして勤務していた病院をちょうど定年退職したばかりだった京子さんは、栄治さんの看護に注力しました。研究者だった英治さんは、研究に没頭する日々で、研究所から帰ってこないのもめずらしくありませんでした。一方、京子さんもナースの仕事に打ち込んできたため、一緒にゆっくりと過ごした日など数えるほどしかなかったのです。ゆえに二人は、療養とその看護の日々を否定的にとらえず、二人で過ごすよい機会と捉えたのでした。
 英治さんは療養中に、京子さんによく看護にまつわる質問をしました。
「採血のときに、親指を中にして手を握るのはなぜだね?」
「親指を中にして握ると指全体の握る力が入りやすくなり、それが前腕の筋肉収縮につながり、そのことで静脈内の血液の流れがよくなり、それが採血をする血管を怒張させて採血しやすくなるのよ」
「ほう」
「座薬を入れたり浣腸をしたりするとき、どうして口呼吸をさせるんだね?」
「口をあけてゆっくり深呼吸すると腹圧がかかりにくくなり、肛門括約筋が弛緩しやすくなり、つまり座薬や浣腸のチューブを挿入しやすくなり、本人にも不快感が少なく実施できるから」
「なるほど、たしかにそうだろうな」
「ボクをベッドから車椅子に移すときに身体を抱えてくれるナースさんは、必ずボクの股にぐっと足を入れこんだけど、それはなぜ?」
「それはね、患者さんの足に挟まれるようにナースの足を入れると、回旋する方向つまり移動したい方向に患者さんの足をスムーズに誘導できるの。それと、患者さんの股に足を踏み込んでないほうのナースの足を回旋する方向に置くと、たとえバランスを崩しても患者さんを支えやすいから転倒防止にもなるのよ」
「へえ。どんなナースさんも車椅子にぼくを移すときは足を入れてくるから、なにか理由があるんだと思っていたけど、そうか、看護的意味だったか」
「あら、ほかにどんな意味があると思ってたの?」
「ん? ぐふふ」
 そんな会話のあとに、友達が見舞いにきてくれたりすると、英治さんは京子さんから聞いたことをそのまま「採血のときにさ、親指を中にして手を握るのはね…」というふうに得意げに語るのでした。
 するとお客さんは「ほう」「へえ」と感心し、その様子を見て英治さんは満足そうに「どうだ、ナースさんの行いにはひとつひとつ看護的意味があるわけなんだよ。すごいだろ」と言って笑い「どうだ、うちの京子は、そういうナースさんたちを束ねる看護部長という仕事をしてたんだよ。すごいんだ」と話したのです。
 英治さんはもともと看護の仕事に理解がありましたが、そんなふうに言ってくれることを、京子さんはうれしく思いました。
 そんなある日のことでした。英治さんのベッドは中庭が見え縁側のある居間に置かれていました。昼食後の二時間ほどはベッドの上半身部分を座椅子のようにセットし、それに凭れて中庭を眺めて過ごすのが日課でした。その状態でいる英治さんが、言ったのです。
「たぶん看護では、患者の心理への影響を考えて、患者ができなくなったことよりも患者ができることを強調して、そちらに目を向かせてかかわるっていうことなんだろうな」
「ん? どういうこと?」
「君さ、よく、背後からボクを呼んで、振り向いたところを写真撮ったでしょ。ボクが一番かっこいい顔だからって言ってさ。元気なときみたいに振り向けなくなったこと、まったく言わなくなったね。でも、前みたいにボクを振り向かせたときみたいにたまに呼んでくれない?」
「え?」
「とにかく、背後から、前みたいに呼んでみてよ」
 それを受けて京子さんは、少し躊躇したあと前のように英治さんを呼んでみたのです。すると、英治さんは言いました。
「ほら、50歳のころに撮ったボクが振り向いたときの写真、あれがいちばんいいって言ってたでしょ。いま、現実では前みたいには振り向けなかったけど、心ではあのカッコイイときと同じに振り返ってるから。そういうイメージしてよ。だからいっぱい、前みたいにボクを背後から呼びかけてよ」
 それから京子さんは、思い出しては背後から英治さんに呼びかけるようになりました。すると、不思議なことに、カッコイイ英治さんが振り向いているのが見えたそうです。
 療養が5年目に入ったとき、英治さんは病気ではなく事故で亡くなってしまいました。

 それから5年がたち、京子さんは昼下がりに縁側で、英治さんが振り向いたときの写真をながめながらしみじみ思うのです。毎日笑顔で夫の看護ができたのも、今、なんとか笑顔で過ごしていられるのも、せっせと看護していたつもりが、逆に英治さんに心の看護をされていたからかもしれないと。

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