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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第61回 感情の表出 2009/6
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 平日の夕方です。
 看護学生の安田美咲さん(20歳)が、自宅の最寄駅から出てきて足早に商店街を抜けていきます。と、ぱたりと足を止め、少し引き返しケーキ屋さんのウインドウの前に立ちます。そして注文します。
「チーズケーキをください。……二つ」
 一年前までは、このチーズケーキを三つ買って帰ったことを思い出した彼女は、寂しさの固まりにおそわれそうになりますが、<しっかりしなさい>と心の中で自分に言い聞かせます。一年前に彼女のお父さんが事故で急死し、家族は母と娘の二人になってしまいました。
 美咲さんは現在、入院患者さんを受け持ち、看護実習中です。受け持ち患者さんと接するだけではなく、看護プランを立て、その実施のための勉強や準備、実施後のレポートなどなど大変忙しい毎日です。懸命に取り組んできた美咲さんでしたが、このところ、精神的に不安定になっていました。彼女の母の妙子さんとの関係が原因でした。
 美咲さんの父、つまり妙子さんの夫であった義武さんの死は、のこされた二人にとって大変辛いものでした。義武さんが、中心となり支えとなり成り立っていた家族なのです。妙子さんは夫が、美咲さんはお父さんが大好きでした。それゆえに、母も娘も喪失の辛さは図れ知れなかったのですが、母は仕事に、娘は学業に打ち込むことで、なんとか辛さをまぎらわして過ごしてきたのです。
 しかし、ひと月ほど前に、母の妙子さんは突然仕事をやめてしまい、家の中で過ごすようになり、と同時に娘の美咲さんに嫌味を言うようになったのです。その内容は、美咲さんがナースを目指していることについてが中心でした。美咲さんは、なぜそんなことを言われなければならないのか、はじめは不思議でなりませんでしたが、そのうち母への嫌悪に変わっていきました。
 そして昨晩、美咲さんにとってどうしても我慢できない言葉を妙子さんは発したのです。がん治療による脱毛が問題になっていること、そのための医療用ウィッグもあるものの平均20万円と高価であること、その事態を受けて、そのような患者さんに無料でウィッグを提供するプロジェクトができ、看護学生が自分の髪を提供する活動がはじまっています。それを知った美咲さんは、自分もその活動に参加したいと考えるようになり、それに向けてヘアケアを念入りにし、髪を伸ばすようになりました。
 昨晩、美咲さんが丁寧に髪を乾かしていると、妙子さんが「ふん、なんか、言っちゃ悪いけど、がん患者さんのために髪を提供する活動って、偽善の香りがする」と小さく言ったのです。美咲さんは無言で家を出て、同じ実習グループメンバーである同級生のアパートへ向かったのでした。
 美咲さんは、妙子さんの言動に腹が立って仕方なく、深夜に同級生の部屋でレポートや実習の計画などを終えたあと、一睡もできずに今日の実習に出ることになりました。そのせいで、日中はぼんやりしてしまうことが多く、夕方、担任の教務の先生から呼び出しがあったのでした。
 じっくりと話を聞く先生に、美咲さんは、泊めてもらった友達にも語らなかった胸の内を話しました。
「病院に父と同じくらいの患者さんがいれば父を思い出しますし、ほかにもいろいろ喪失の辛さがあるんです。でもこれまでは、母も辛いのだろうと思ってなんとか我慢していました。しかし、いくらなんでも、ヘアドネーションのことをあんなふうに言われては、許せません。人間として許せません! どうしてあんな母になってしまったのか。実習をつづけていくためにも、母とは離れて暮らしていくしかないと思います」
「辛いのね。ずっと辛かったのね」
「はい」
 美咲さんはそう言ってうなずくと、父の死後はじめて号泣しました。
 彼女の肩に手を置いてしばらく黙っていた先生が口を開きます。
「あなた、いま、感情の表出ができましたね。気になるのは、あなたのお母様が感情を表出できてないのではないかということです。それと、ひと月前に急にお母様が変わったようですね。それはなにかあなたも知らない辛いことが起きていて、その辛さが表出できないために感情が捩れてしまっているのかもしれませんよ。感情を表出できたあなたがしっかりしてお母さんを助けてあげなさい。このままでは共倒れになってしまうかも」
 美咲さんは、思い切り泣いたことで気分がすっきりと落ち着いてきて、妙子さんについて優しい気持ちが持て、たしかに妙子さんは泣ける場面がないのかもしれないと思いました。親友のAさんとも、以前は毎日のように電話やメールをしていたのに、最近はやりとりをしていないことにも気づきました。
「お母さん」美咲さんは帰宅し、居間でぼんやりしている妙子さんに声をかけました。
「あら……」
「お母さん、チーズケーキ、食べない? 駅前のやつ」
「…………」
「夕飯前だけど、お腹すいたから、食べていいよね」
「……美咲………帰ってきてくれて、ありがとう」
 母の妙子さんは、堰を切ったように泣き出しました。30分ほど声をあげて泣きました。
 その後黙ってチーズケーキを食べ終え、妙子さんは美咲さんに話したのです。妙子さんの親友のAさんと、亡くなった義武さんが長らく不倫関係にあったこと。それがひと月前にわかったことをです。Aさんの職業がナースであることを、美咲さんは思い出しました。
 二人は、これをきっかけに以前のように関係が良くなったそうです。

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