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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第65回 こいばな 2009/10
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 早朝の訪問看護ステーションで、ナースが一人、机に向かい、便箋にゆっくりと文字を書いています。辞表のようです。
 彼女は横田ゆかりさん、27歳。大学病院の救急外来やICUに勤務し充実していましたが、患者さんとじっくりコミュニケーションをとって看護する職場を経験してみたいと思うようになり、訪問看護のナースになって二ヶ月あまりです。
 文字を書きながら、彼女は心の中でつぶやきます。
<まさか、こんなに早くナースを辞めることになるなんて…>
 そして、看護学部合格のための受験勉強から、学生時代、国家試験、病院勤務と、まじめにがんばってきた日々を思い出します。彼女は、ナースとしてほかの職場に移るために辞表を書いているのではなく、ナースという職業を辞めようと考えているのです。
 ひと月前に彼女は、81歳の男性、戸塚一郎さん宅をひとりではじめて訪ねました。三回目の訪問でしたが、二度目までは訪問看護ステーションベテランさんなどほかの人が一緒だったのです。
 戸塚さんは横田さんに言ったのでした。
「あのー、ちょっと相談してもいいですか」
「はい。なんでしょう」
「言いにくいことだし、恥ずかしいことだから、ほかの人には言わないと約束していただけますか?」
 看護にまつわる情報は、原則として訪問看護ステーション内で共有するので、横田さんは少しためらいながらも「はい」とこたえました。各患者さん宅を訪問するようになりましたが、どの患者さんともなかなかコミュニケーションがうまくとれず、まだ経験が浅いから仕方ないと自分に言い聞かせながらも、彼女にはあせりがありました。なので、戸塚さんのほうから「相談したい」と言ってきてくれたことが嬉しかったのです。
 戸塚さんが言いました。
「若い人たちは、恋愛の話をこいばなって言うらしいですね。実は、内気でね、意中の女性を誘えないわけなんです。相手も、思いを寄せてくれているみたいなんだけど、一歩が踏み出せないわけなんです。いい年して、というか、いや、いい年だからというべきか。どうしたらいいんでしょうね。結局、女性と、その……、肉体関係を持つことにおいて、自信がないわけなんです」
 横田さんは誰のことを言っているかすぐに察しがつきました。近所に住み、なにくれと戸塚さんの面倒を見ているお孫さんの男性です。
「もうすぐ四十だというのに、まだ独り者でねえ、誰かいい人を紹介してやってくださいよ」
 一度目の訪問の際、戸塚さんが、横田さんたちにそういうと、居合わせた彼は下を向いてしまいました。
 戸塚さんが横田さんの目を見ていいます。「看護師さん、えーと、横田さんだったね。これは切実な問題なんですよ。相談に乗ってくださいね」
「はい」
 戸塚さんのお孫さんは性的な心配も持っていて積極的になれないのだ、そういうデリケートな問題だから、それをお孫さんだと明らかにはしたくないのだな、と横田さんは考えました。しかるべき外来を紹介するのがいいとしても、ある程度話を聞いてからのほうがいいと思い、彼女はさしあたり戸塚さんの話を聞くことにしたのです。
 以来、横田さんが訪問すると、彼は待ち構えていたかのように、いつもこう切り出しました。
「今日も、例のこいばな、相談していいですかな? あなたぐらいにしか相談できなくて」
 自信がなくて誘えない、でも、思いはつのるばかりだという内容でした。
 そして先週の訪問の日、戸塚さんのこいばなをある程度聞いたあと、横田さんははじめて戸塚さんに質問したのです。
「戸塚さんは、その方にどういうふうにアドバイスなさったんですか?」
 すると、戸塚さんは「ん?」といって、目を丸くし、口をぽっかりあけて、しばし天井を見つめていましたが、そのうち、息を荒げ、口をがくがくさせて怒り出し、次にくるりと横田さんに背を向けて、こう言ったのです。
「ば、ばかにするな。こっちは恥を忍んで、相談してたんだ。一体、誰のことだと思ったんだ。ば、ばかにするのもいい加減にしろ。八十も過ぎた年寄りが、当人のはずはないと思ったんだろうな、帰ってくれ、次からは別の人にきてもらってくれ、そして、いままで話したことは絶対にほかに言わないでくれ」
 ものすごい剣幕でした。
「戸塚さん自身の話だなんて、1%も考えずに彼を傷つけてしまった」と、横田さんはたいへん落ち込みました。できるナースとして病院でバリバリ働いていた彼女は、一気に自信をなくしました。そして、ナースとして一番重要だと思われるコミュニケーション能力が欠如しており、ナース失格だという思いに至ったのです。
<人生ってわからないもんだなあ>
 心の中でそうつぶやくと、ため息をひとつついて、彼女は書き終えた辞表を、所長のデスクに置きに行きました。

 結局、横田さんは辞めずにいまも同じ職場で働いているそうです。それは、戸塚さんを長く訪問看護していた別の訪問看護ステーションから、「いろんなことを語って演じて楽しむところがある人だ」という情報があり、横田さんではない別のナースが彼を訪問すると、「あれ? 横田さんには、冗談通じなかったのかな」とケロリとしていたそうなのです。

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