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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第66回 自動車通勤 2009/11
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 朝、国道を、ひとりの女性が赤いコンパクトカーで、走っています。
 彼女は、看護師の加藤美雪さん、39歳。ふた月前に長らく働いた都内のS病院を辞め、ひと月前に、実家のある県よりひとつ東京に近い県の病院に就職しました。
 自動車通勤に慣れてきた彼女は、お気に入りのラジオ番組に耳を傾けながら、S病院を辞めると決めた日の夜のことを思い出しています。
 その夜、彼女のマンションには、交際して五年になる山本幸樹さん39歳が来ていました。美雪さんが辞めたS病院に勤務している臨床検査技師です。
 夕食を終え、彼は新聞のテレビ欄を見ながら美雪さんに言いました。
「もしかして、ボクを試してる?」
「は? どういうこと?」
「だからさ、美雪がS病院を辞めたら、ボクがなにか結論を出すじゃないかと思ってるのかな、と」
 独身の二人なのですが、「一緒に住みたい」と幸樹さんがいい「住むなら結婚したい」と美雪さんが応え、前の結婚で苦い思いをしたバツイチの幸樹さんは結婚に踏み切れず、お互いの家を行き来する交際が三年間続いていました。
 美雪さんが答えました。
「そんなんじゃないよ。さっき言ったじゃない。自動車通勤をするような病院に勤めようかな、それが楽しそうだと思ったからだって。前から私、通勤にこだわりがあるってよく言ってたでしょ。S病院に就職したのは、通勤がとてもいい感じだったからだって。でもそれが、このごろいい感じじゃなくなったからっていうのが辞める理由なの。別に、幸樹を試すつもりなんかないよ」
 それは、ほんとうのことでした。
 美雪さんは、学生時代の病院実習でS病院にひと月ほど通ったのですが、その際のS病院までの道のりがとても気に入り、クラスメイトの多くが就職する病院とは違うS病院に就職したのです。
 自宅のマンションから駅までは、昔ながらの商店街をゆっくりと抜け、私鉄電車に乗り五つ駅を数えてから降り、小さな公園と小学校のそばを過ぎるとS病院に到着でした。
 美雪さんが幸樹さんに言いました。
「まあ、就職したころから比べると、駅までの商店街もいくつかはシャッターが降りたまんまになっちゃったし、大好きだった喫茶店もなくなっちゃったけど、いちばん残念なのは、電車内の雰囲気が最近すごく変わってしまったこと。いまなんて、ヘッドフォンつけて片手で携帯やって、もう片手でつり革もって、口を押さえずにゴホゴホと咳をしつづける若者がいて、その近くには、自分以外はすべてバイキンだといわんばかりにマスクして眉をひそめているおばさん。そのとなりには、知り合い以外は人ではなく風景みたいに思っているらしいお嬢さんがメイクしたり物を食べたり。陰気で殺伐としてて不快な感じの車内になっちやったの。以前は、のんびりととなりの人に寄りかかって居眠りする人や、マンガ週刊誌を熱心に読んでいる人や、見守るような目で周囲の人間観察している人とかで、なんとなく車内には一体感みたいのなのがある路線だったのに」
「たしかにね。どこか昭和の香りがする路線というか客層というか、そんな感じだったけど、いまは山手線とかと同じになっちやったな。でも、そのことを理由に、十七年も勤めてきた職場を辞めるって、おかしくない?」
「そんなことないよ。職場の人間関係だって悪くないし、ほかに理由なんてないもの。幸樹君ならさ、電車内の雰囲気が変わっちゃって残念なの、わかるでしょ」
「まあねえ」
 二人は、通勤時に電車で何度も一緒になったことがきっかけで交際するようになりました。この夜二人はそれから、思い出話に花を咲かせたのでした。
 信号待ちでブレーキを踏むと美雪さんはつぶやきます。<まあねえ、だなんていい方、気に入らないわねえ、まったくう、幸樹のやつ、許さん、今晩、呼びつけてやろうかな>

 実は、幸樹さんは、三ヶ月前に事故で亡くなったのです。彼の突然の死に接し、美雪さんは気丈に振る舞っていましたが、通勤の電車に乗るとどうしても涙が止まらなくなるので、サングラスをかけて電車に乗っていたのです。
 そんなある日のこと、たまたま電車で乗り合わせた上司に「看護職なんだから、ほかの人よりは、人の死に慣れているはずでしょ。しっかりしなさい」と言われ、以来、電車に乗れなくなり、S病院を辞めたのです。
 ですから、美雪さんがいま思い出している彼との会話は現実にあったことではありません。でも、心のバランスを取るために、彼女に必要なことなのです。

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