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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第68回 休み希望 2010/1
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 夕方。某アイドルグループのコンサート会場内。満員の客たちがざわめいています。もうすぐ、コンサートがはじまります。
 客の中には、看護師の桂川アキさんがいます。都内の病院に勤務しています。
<この日のために私は仕事をがんばってきたんだ。思いっきり発散してすっきりして帰るぞ!>
 彼女は手鏡を出し、メイクがくずれていないかチェックします。以前、あるアイドルが、
「観客の人たちの顔は案外よく見えるんだ。おしゃれしてきてくれたんだと思うと嬉しくなる」
と雑誌でコメントしていたのを読んで以来、彼女はメイクや洋服に力を入れてコンサートにのぞむようになりました。
 手鏡をのぞいた彼女は、同じ病棟で働いている先輩のことをふと思い出します。休憩室でよく手鏡をのぞいている桜庭さん。アキさんが新人だったときに指導担当をしてくれた人です。現在、アキさんはナース6年目、桜庭さんは9年目です。
 アキさんは、桜庭さんに対し、胸の内でネガティブな感情を持っています。普段は、職場の同僚として笑顔で接していますが、許せない気持ちがずっと消えないのです。

 三年前のある日、その原因となる出来事がありました。後輩の指導を熱心に行っていたアキさんを、後輩たちの目の前で、桜庭さんは「何もわかっていない」「勉強が足りない」とはげしく叱かりつけたのです。アキさんは、言いようのないショックを覚えました。
<どうして後輩たちの目の前で叱るんだろう。何もわかっていない、勉強が足りない私に指導されていることになる後輩は、私の言ってることなど何も信用できないと思ってしまうのではないだろうか>
 3年目のナースとして、自信を持って、堂々と、多少厳しい口調で指導したほうが後輩たちの心に届き仕事も早く覚えることになる。そう思って実行していたアキさんは、バツの悪さ、屈辱を感じました。
<こんなこと、仕事していれば誰だってあること。たしかに、桜庭さんに指摘を受けたのは私の完全なる落ち度だった。桜庭さんだって、私を思って指導してくれたんだ。恨んではいけない。このショックをばねにしてもっと仕事ができるようになればいいんだ>
 アキさんは、そう思うようにして仕事を続けてきました。しかし、桜庭さんに対して許せない気持ちが芽生えたままなかなか消えませんでした。気さくで仕事ができる桜庭さんやほかの先輩と、ときにはお酒を呑みに行ったりするほど、同僚として仲良くつきあうようになっても、胸の内の許せない気持ちは消えず、アキさんは自分自身が、心が狭く恨みがましい人間に思えてきました。
 その後、アキさんを叱った時の桜庭さんがつらい状況にあったことを知り、これで、彼女への許せない気持ちはすっかり消えてくれるかもしれないと思ったアキさんでした。しかし、消えなかったのです。
 そしてひと月半前、桜庭さんを許せない気持ちがまだ残っていることをアキさんは改めて確認することになりました。ひと月半前、申し込んでいたアイドルのコンサートチケットの当選ハガキが届き、さっそくその日の休暇希望を出しました。アキさんの病棟では、スケジュールの希望を書き込む表がナース休憩室に置かれていて、スタッフの誰がどういう希望を出したのかがわかるようになっています。希望の締め切りが迫っていたので、アキさんはあわててその表にコンサートの日を休み希望の印をつけました。どうしても休みたいという意味の赤字でです。
 コンサートの日は平日の夜です。都内からは二時間ほどかかる会場にゆったりした気分でコンサートに望みたいと思い、一日休みの希望を出しました。アキさんは、コンサートの日には絶対に休めるように、赤字での休み希望のみならず休み希望など一切出さないで、看護師長がつくった勤務表どおりに勤務し休んできました。急に休んだ人のカバーなどにも、看護師長から要請があれば、嫌な顔ひとつせず対応してきました。すべてはコンサートの日に確実に休むためです。赤字の休み希望を出した理由についてはスタッフ内の誰も知りませんでしたが、アキさんの休み希望をとおしてあげよう、という配慮が、ほかのスタッフたちの希望の出し方でわかりました。<これでコンサートの日はかならず休める>とアキさんは思いました。
 しかし翌日、スタッフの一人が、アキさんと同じ日に、休み希望、それも赤字で書き込んだのです。またその人は、アキさんと同じチームメンバーのため二人同日に休むのは難しいのです。<これじゃ、休めないかもしれない>アキさんは頭を抱えました。その人、とは桜庭さん。彼女もまた、普段は休み希望を出さない人でした。
 アキさんに葛藤が起きました。<これは、私へのいやがらせではないかしら><いや、違う。私が以前のことを根に持っているからそんなこと考えてしまうんだ><でも、友達の結婚式に出るわけでも、子供はいないのだから子供の用事のわけでもないらしいのに、私が希望出したら追うように希望を出したのは妨害としか思えない><そんなふうに思うのは私の心が狭いから?>
 そして、以前からの許せない気持ちが大きくなるのをアキさんは感じ、そんな自分が実に器の小さな人間に思えてきて情けなくなるのでした。
 看護師長の采配で、結局はアキさんも桜庭さんも希望どおり休みがとれることになり、今日を迎えたのでした。

 コンサートは、会場全体がゆれているのではないかというほどの盛り上がりで、アキさんは曲にのり、お目当てのアイドルに思いっきり声援を送り、頭の中がからっぽになった気分で、身体からは元気が湧いてくる感触でした。
 そして、コンサートも終盤になり、ひとつの曲がおわり、すーっと会場がしずかになったそのときです。アキさんの背後から「ありがとう!」という声が聞こえました。聞き覚えのあるその声に、アキさんは我にかえり、声がした方向に振り向くと、たまたま当たったスポットライトによって、ある女性の顔が見えました。桜庭さんでした。彼女は「ありがとう」とくり返し叫んでいました。涙をためた目が光っているその顔は、アキさんが見たことのない少女の表情でした。桜庭さんもアキさんと同じで、このコンサートをたのしみに仕事をがんばってきたのだなとアキさんは思い、いままでの桜庭さんに対してのネガティブな思いはすっかり吹き飛んだのを感じたそうです。

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