Archive

小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第69回 クレーム 2010/2
dotline

 夕方のA訪問看護ステーションの事務所。
 20代後半のナース梨本さんが、両肩からバッグをぶらさげ、事務所に帰ってきます。今日は、梨本さんをのぞいては、みな早めに訪問先から戻ることができた様子で、それぞれデスクに向かって記録をしています。
「ただいま、戻りましたー」
「………」
 いつもなら笑顔や言葉を返してくれるのに、まったく反応がありません。意識的に無視している雰囲気です。
 不安になりながら梨本さんが席につくと、所長が腕組みをして彼女のそばにやってきて言います。
「クレームがきたわよ」厳しい声です。「大島さんの奥様がさっきいらしたの」
「え?」
 梨本さんは驚いて目を丸くしましたが、「やはりそうだったか」という思いもありました。
 大島俊夫さん82歳。ふた月ほど前からA訪問看護ステーションを利用するようになり、梨本さんが訪問するようになりました。大島さんは、なんとか歩いてトイレに行ける状態ではありますが、数年前から両眼が見えにくくなり、インスリン注射や食事管理、血圧コントロールなどを奥様が全面的にサポートしています。
 梨本さんが大島さんのお宅を訪問すると、いつも、大柄な大島さんが小柄な奥さんに声をあげて意見していました。梨本さんが訪ねてもお構いなく奥さんにがーがー言い続けました。奥さんは、困った顔をしながら室内の片付けやご主人の世話を続けるのでした。
 今日、梨本さんが朝いちばんに大島さん宅を訪問すると、ご自宅の庭までご主人のがなる声が聞こえてきました。
「なんでそんなもん、いるんだよ。いままでだって、そんなもの、使わないで暮らしてきただろ。それで不自由はなかったんだから、いらないだろ!」
 お宅に入って梨本さんが挨拶すると、ほんの少しのあいだは静かでしたが、奥さんが梨本さんに「いまはみーんな、持ってますよね、携帯電話」と言ったことがきっかけとなり、また、ご主人のがーがーがはじまりました。
「だから、いらないって言ってるだろ! 何度言ったらわかるんだ。日本の全国民が持っているっていうのか。全員は持っていない。それにもし、持ったとしたって、一体、いつ、どんなときに、誰にかける必要があるんだよ」
「だから、たとえば、病院とか銀行とか、出先からミユキにかけられるじゃない。いまは、公衆電話が少なくなったから、たいへんなのよ。こないだだって、病院で、となりに座ってた人に携帯電話借りたじゃないですか」
 奥さんは、小さな声で言い返しました。
「それでいいじゃないか! だいたい、年金でほそぼそ暮らしている状態なのに、携帯電話だなんてむだ使いだろ、なんでも、そうやって、ほかの人が持ってると自分も自分もって、バカみたいに」
 ご主人の声はいちだんと大きくなり、その後もがーがーが続くのでした。
 梨本さんが、食事や注射や血糖の記録などをチェックし終えて帰ろうとすると、玄関まで見送りに出た奥さんが言いました。
「まったく、今日もうるさかったでしょう。もう、いやんなっちゃう。なんとかなりませんかね。なにかひとこと言うと百かえってくるんですからね。梨本さん、どうにかしていただけないでしょうか」
 奥さんが、そんなふうに梨本さんに言ったのははじめてでした。
 梨本さんは、次の訪問先へと急がなければなりませんでした。それに、大島さんのケアはさしあたりうまくいっており、看護上の問題点はないと思われ、大島さんが奥さんにがーがー言うことについては、訪問看護師がでしゃばる問題ではないようにも思われました。奥さんは愚痴をもらしたのだなと思うことにして、梨本さんは大島さん宅をあとにしたのでした。
 しかし、それから一日、梨本さんは、大島さんの奥さんの「どうにかしていただけないでしょうか」という言葉が気になったのです。梨本さんは、訪問看護のナースとしてはまだ新人で自分の判断に自信がありません。
<もしかして、奥さんはご主人のがなりがたいへんなストレスで、本気でそれを改善してほしいと思っているのではないだろうか。私は、看護者としてなにか重大なことを見落としているのではないだろうか。それが原因で、今後看護上の問題が出てくるのではないだろうか。もしかして、ご主人は私の知らない場面では、奥さんへの暴力などもあるのだろうか。自宅から訪問看護ステーションが近いとはいえ、わざわざやってきたのは、なにもしてくれない未熟な私に不満を持ったからだわ>
「あ、あの、所長、大島さんの奥様、どんなクレームでした?」
 梨本さんは、うつむいたままか細い声で聞きました。
 すると、白菜の漬物がどっさり盛り付けられた大きなお皿が彼女の目の前に、どんと置かれたのです。
 梨本さんが驚いて顔をあげると、所長はにっこりと笑顔になっており、シーンとしていた先輩たちもにこにこ顔になっていました。所長が言います。
「大島さんの奥さんが突然いらして、クレームに参りました、っておっしゃるから驚いたんだけど、どうも、クレームをお詫びのような意味だと思っているらしくてね、梨本さんにいつも痴話喧嘩をお見せして申し訳ないっていって、自家製の漬物をね、お土産に持ってきてくださったのよ」
 梨本さんはほっとして、その白菜の漬物を口にいれたら涙が出てきてしまったそうです。

ページの先頭へ戻る