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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第7回 オレ流看護法って何? 2004/12
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 プロ野球の落合監督似の前田登志彦(仮名)さんに、先日、久しぶりに会いました。
 前田さんの二人娘は、今年の春、夏、と順に結婚して家を出ました。可愛い娘たちが一遍にいなくなってしまい、さぞや寂しいだろう、寂しすぎて病気にでもなりはしないか、と少し気になっていたのですが、下の娘さんが結婚してひと月たったころ、なんと、前田さんではなく前田さんの奥さんのほうが倒れて、緊急入院、緊急手術を行ったと人づてに聞いていました。消化器系の病気だったそうです。
 奥さんが無事退院されてから二週間たち、ひと安心したらしく、半年ぶりにお酒の席に顔を出した前田さん。喉を鳴らしてビールを飲み干すと、にんまり笑ってからいいました。
「家内にね、オレ流の看護法ってやつをだね、やってやったんだよ」
「オレ流? 具体的にはどういう看護法なんですか?」
「ぐふふ。もったいなくて教えられないな。小林さんに教えたら、すーぐ、どっかに書かれちゃって、せっかくのオレ流が減っちゃうからな」
「聞きたいなあ。おせえてくださいよー」
 そう言って、前田さんの袖を引っ張ると彼は、目を細めて口の端についたビールの泡を親指で拭いながら、
「やだよー、おしえてやんないよー」
と言って、ウサギのように口をもごもごさせます。これは、話を聞いてもらいたいときの彼独特の仕草です。<もったいぶらずにさっさと話せばいいのに>と思いながら、何回か彼の袖を引っ張ると、彼はやっと話はじめました。
「オレさ、小さいとき体弱くて、学校休んで家で寝てる日が頻繁にあったの。で、母親が畑仕事の合間に様子見にきてくれて、そして、あることをいつもやってくれたんだよ」
 手術を終えて病室のベッドに苦しそうに寝ている奥さんを見ているうちに、その、あること、というのが子供の前田さんになんともいえない安らぎをもたらしたことを思い出し、それを病気の奥さんにもやってやりたいと思ったそうです。その、あること、というのがオレ流の看護法ということらしいのです。ん? ならばオレ流というよりは前田さんのお母さん流というのが正しいのでは? それはともかく、彼に質問します。
「で、あることってなんですか? 早くそのオレ流看護法なるものを具体的におしえてくださいよ」
「まあ、あせらないで。それをね、家内にやってやりたい衝動にかられたんだけども、病室では、なかなかできないわけよ。やるタイミングがなくてね。最初にやりたいと思ったのは、家内が手術から帰ってきたばかりで、病室は六人部屋なんだけど、全員がカーテン全開にして、同室の患者さんたちが家内とオレのほうを見てるんだもの。恥ずかしくてできやしないんだよ」
「え? その、オレ流看護って、人に見られたら恥ずかしいの? そうなの?」
「ちょ、ちょっと黙っててよ。話はまだまだつづくんだから。次にね、面会時間が終わる7時前にね、病室のみんながカーテン閉めてて、洗濯物届けにきた上の娘も先に帰ってね、家内のとなりにはオレひとり。ちょうど家内は寝ているし、グットタイミング! と思ったら下の娘がひょっこり現れてオジャンよ。まったく間の悪い娘」

 同室の患者さんばかりでなく、娘にも見られたら恥ずかしい行為って一体…。前田さんが続けます。
「次のチャンスもナースが現れてダメになり、そして次のチャンスには担当の先生がふらりやってきてダメになって、とにかくことごとく邪魔が入ってね。そのうち日がたって、鼻に入れてた管が抜けて、点滴も抜けて、家内はすたすた歩くようになって、面会に行ったって、ベッドにちょこんと座ってるんだから、やろうったってやれやしない」
 ということは、奥さんは目を閉じて横になっていないとできない行為ということです。一体どんな行為なのでしょう。彼に訊きます。
「じゃあ、結局、オレ流看護法はできないまま終わったってことじゃないですか」
「まあ、最後まで聞いてなって。あのね、不思議なことが起こったのよ」
 退院前日の夕方。同室の患者さんらは、検査室からまだ戻ってこなかったり売店に行ったりでみんな出払っており、奥さんは着替えのためにベッド周りのカーテンを閉め、前田さんはベッドサイドの丸椅子に座ってペットボトルのお茶を飲んでいたそうです。前田さんは、そこまで話すとビールをゴクリと飲んで、あさってのほうに顔を向けて言いました。
「お茶飲んでたらね、家内がなにを思ったか、ベッドにしずしずと仰向けになって、目をつぶってね、こう言ったのよ。<ねえ、やって>って。<お父さんがやろうとしてたこと、いま、やって>ってね、なんか、いつになく淑やかな声でね。で、オレがぽかんとしてると<手術のあとの辛い時期に、何度も私にやろうとしたこと、いま、やって>って言ったの」
 そのときの奥さんの言い方は、とても切実で真摯で、静かだが有無を言わせないトーンがあったそうです。
「で、やったんですね」
 私が言うと、前田さんはそっぽを向いたままこっくりうなずき、そのときの説明をはじめました。
「手を静かに伸ばして、家内のね、額のところの、髪の生え際あたりから、うしろに、しずかにしずかに撫で下ろしたのよ。よしよし、よくがんばったなって思いながら、何回も何回もゆっくりと。そしたら家内が<ありがと>って言った。家内の目じりは少し濡れてたね。それにしても、どうして家内は、オレがそれをやりたいってことがわかったんだろう。不思議で仕方ないよ」
「………」
 そんな不思議よりも私は、多くの人が慈しみや労わりの気持ちを込めて行う、頭と髪を撫でる行為が、どうして前田さん独自のオレ流看護法ということになるのか、そっちのほうが不思議でした。
 でも、それを言うのはやめて、私は前田さんのコップにビールを注いだのです。語りはしないけれど、急に真っ白になった髪が、奥さんの入院手術という事態がいかに心身ともにたいへんだったか物語っていましたから。

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