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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第70回 次の目標 2010/3
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 天気のいい昼下がり。
 葛原陽三さん(83歳)は、椅子に座り、自宅の居間の窓際でひなたぼっこをしています。
 彼の後姿の痩せた肩を、娘の葛原涼子さん(53歳)はキッチンの小窓から見つめながら、<なんであんなことを言っちゃったんだろう>とつぶやき、小さくため息をつきます。

 ひとり娘の涼子さんは、結婚と同時に実家からは遠い地に住むようになりました。その後、離婚してからも、ひとり息子の学校のことなど考え、その地に留まり暮らしていました。
 しかし、いまから一年前、涼子さんの母であり陽三さんの妻のトシコさんが体調を崩したのを期に、彼女は息子の健太さんとともに両親の元に戻り一緒に住むようになりました。それから間もなく、涼子さんの母のトシコさんが亡くなり、陽三さん、涼子さん、健太さんの三人暮らしとなりました。
 こまかな不調はなにかとあるものの、これといった大病はなく、元気に年を重ねてきた陽三さんでした。しかし、最愛の妻のトシコさんを喪うと、身体を動かさなくなり寝ていることが多く、食も細りました。
 このままだと、寝たきりになってしまうかもしれない。
 そう考えた涼子さんは、当面は仕事を受けず(彼女はイラストレーター)、陽三さんの世話に徹することにしたのです。実は、涼子さんはナースの免許を持っており、三十年ほど前に三年間ナースとして病院に勤務した経験がありました。そもそも彼女がナースになった理由は、<両親が体調を崩したら自分が看護してあげたい>でした。また、涼子さんは、若い頃に遠方に住むようになってしまったため、親孝行ができた実感もないばかりか、そばにおらずさびしい思いをさせてしまったと考えており、今後はできる限りのことをしたいと思ったのです。
 涼子さんは、食事の工夫をし、毎日散歩に連れ出すなど、看護の視点を思い出しながら、父親の世話をしはじめました。孫の健太さんの結婚のことで何度も働きかけながらです。
「父さん! 可愛い孫の結婚式に出席するんだから、具合悪くならないようにしなきゃね。背筋もしゃきっとしてなきゃね」
「そうだな」
 健太さんの結婚式に元気に出席する。それが目標となり、陽三さんは食もすすみ少しずつ元気を取り戻していきました。そして無事、陽三さんは孫の結婚式に出席したのです。それがいまからひと月前のことでした。
 その翌日、涼子さんは愕然としてしまったのです。孫の結婚式という目標は達成してしまい、陽三さんに励ましの言葉をかけてゆくための目標がなくなってしまったからです。涼子さんは、しっかり父親の世話ができているところを、親戚に見せたい気持ちもありました。親戚のみんなが、ひとり娘として婿もとらず、遠方に行ってしまってしっかりと親の面倒もみない、と涼子さんに対して批判的な目を持っていることを感じていたからです。しかし、ナースといっても長いブランクがあり、ナースであることを発揮して世話ができているかどうか、不安な部分がありました。
<結婚式という目標はやがてなくなるのだから、別の目標、次の目標について、もっと事前に考えておけばよかった。一回で終わってしまうものではなく、花見のような毎年繰り返される目標のほうがよかったのかも。でも、花見はいまの父にとって魅力ある目標にはならないかも。もっと、父の心に響き、すぐには終わらない目標を考えなければ>
 その後、日に日に陽三さんの元気がなくなっていくようで、涼子さんはあせりました。
 そんなある日、陽三さんがぽつりと涼子さんにいいました。
「涼子、これからもずっと一人でいるつもりか。ひとりはさびしいぞ」
「うーん」
 涼子さんは、三十歳のときに離婚して以来、独身です。
 このとき、涼子さんはひらめき胸の内で膝を叩き、陽三さんにいいました。
「私さ、もう健太も自立して結婚もしたし、いつか再婚したいと思う。いい人がみつかったらささやかながらもお祝いパーティを開くから、父さんも元気に出席して」
 陽三さんは、華やかなお祝いの席が大好きなのです。涼子さんは、内心では再婚などする気はまったくありませんから、いつまでたっても、目標がなくなることはありません。これはいいと思いました。
「そうか、涼子が一人でいると安心できないからな。相手の顔を見るまでは元気でいなきゃな」
 しかし、思いも寄らない事態となったのです。つい最近、涼子さんの身に、突然、恋愛が降ってきたのです。ひょんなことで、昔の知り合いに会い、急激に恋に発展しました。
<どうしよう。もしかして、再婚の運びとなったら、父さんの目標がまたなくなってしまう>

 キッチンの小窓から陽三さんの後姿を見つめながら、涼子さんはまたひとつため息をつきます。
 すると、陽三さんがくるりと振り向き、手招きをしました。
「ひ孫の顔を見て、ひ孫の成長を見るために、元気でいなきゃな」
 涼子さんの心中を知ってか知らないでか、陽三さんはそう言って笑顔になりました。陽三さんは自分で目標をちゃんと見つけていたのです。涼子さんは、肩に力が入りすぎていた自分をこのとき自覚したそうです。

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