Archive

小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第71回 お告げ 2010/4
dotline

 某病院の病室。午前11時30分。
 窓側のベッド上では、近田松男さん(78歳)が仰向けになり天井を睨んでいます。そのベッドのまわりには、娘の良子さんと訪問看護師の前園さんが立ち、松男さんの顔をのぞきこんでいます。
 良子さんが父親の松男さんに、泣きそうな調子でいいます。
「父さんが、こんなわがままを突然言い出すなんて、思いもよらなかった。どうしてなのよ、ほんとうの理由はなんなの?」
「だから、ご先祖さんのお告げだよ」
「なに言ってんのよ!」
 良子さんが思わず声をあげると、同室の患者さんがカーテンごしに咳払いをします。
 今日の午前10時ごろに、近田松男さんは退院する予定でした。しかし、迎えにきた良子さんと訪問看護師の前園さんを前にして、「家には帰らない、帰りたくない」と言い出したのです。昨日の夜、ご先祖様が松男さんの夢枕に立ち「家に帰ってはならぬ。家で最期を迎えてはいけない」と告げたという理由でです。
 自宅で療養することは、松男さん本人のたっての希望でした。その希望をかなえるために、病院の担当ナースだけでなくソーシャルワーカーやさまざまな人、良子さんや彼女の夫、それから息子のリュウ君などみんなが考え、動き、今日の退院を迎えることができたのです。松男さんは、薬で苦痛は緩和しているため、現在は話すこともでき、食事もできる状態ですが、来年の花見まで生きるのは難しいかもしれないという医師の見解です。
 良子さんが、ため息をつき、ベッドサイドの椅子にかけ、窓のほうを向いてぶつぶつと話し出します。
「今日の退院を迎えるためにみんながどれくらい苦労したと思ってんのよ。担当の看護師さんやソーシャルワーカーの方がおそくまで残ってあれこれ検討してくれたり、退院後の点滴のやり方だのなんだのを、看護師さんが休みの時間を使って私におしえてくれたりさ。父さんが見えないところでみんな大変だったの。前園さんだって、わざわざ迎えにきてくれたのよ。迎えにきてくれるなんてあまり聞かないよ。それだけ親身になってやってくれているわけ。それを、お告げだなんて…。それにね、もう、このベッドには、午後に入院の方がいらっしゃるんだってよ。このままいたら、その人にだって迷惑かけるじゃない。父さん、さっ、着替えよう」
 良子さんが立ち上がり、松男さんのパジャマのボタンを外そうとし、松男さんがそれに抵抗します。
 そこへ、訪問看護師の前園さんが二人の間に入り、良子さんに言います。
「ちょ、ちょっとお待ちください。いま、この病棟に、一時的に空いているベッドがあるかもしれませんから、こちらの看護師さんに相談して、一担そちらに移動させていただいて、もう少し話し合いませんか?」
「でも、父さんと話してもう二時間近く経つのに、埒があかないんだから、いくら話したって同じよ! こうなったら強引に連れて帰るしかないでしょ」
「いや、強引はおすすめしません」と前園さん。本人が納得して、自分の意思で退院し帰宅することが、今後松男さんが自宅療養し最期の日まで充実した気持ちで過ごすには重要だと前園さんは考えているのです。昨日までは、退院をたのしみにしていた松男さんです。お告げではなく、心境の変化をもたらしたきっかけがなにかあるはずだと前園さんは考えています。
 前園さんは松男さんに声をかけます。
「もしかして、自宅療養が不安になるようななにかがあったんですか?」
「いいや」
「では、ご自宅へ帰らない場合、具体的にはどのようになさりたいですか?」
「うむ、この病院にはいられないというなら、別の病院に転院させてもらうか、どこかに介護施設に入れてもらうとか」
 その言葉を聞き、良子さんが、手にしていた松男さんの着替えを椅子にばさっと投げつけ、吐き捨てるようにいいます。
「父さん、今日いきなり入れてくれる病院も施設もあるわけないでしょ。人に迷惑などかけるなんてもってのほか。父さんは、そんな立派な大人のはずなのに、私が尊敬してた父さんはどこいったのよ。狭い家の中を骨を折って配置がえしたり、じいちゃん子のリュウだって、じいちゃんと同じ部屋に寝起きして世話をするって決めてさ、私も父さんを中心にこれから暮らしていこうってがんばってきたのに…」
 良子さんがとうとう泣き出してしまいます。
 そこへ、松男さんの孫のリュウ君が入ってきます。
「どうした? 待っててもおそいから」
 顛末を良子さんから聞き終わるとリュウ君はうなずいたあと、一分ほど松男さんをみつめます。そして、しずかにいいます。
「じいちゃん、実は、ぼくも、昨日、ご先祖さんが夢枕に立ったんだ。ご先祖さんはさ、ぼくに、<おまえのじいさんは、家で療養させなさい。おまえのじいさんは、昨日、孫が大学に落ちて浪人することになったことを知り、今後の受験勉強の邪魔はしたくないと考えて、帰らないって言い出すかもしれないけど、絶対に連れて帰れ>ってさ。じいちゃん、ぼくはじいちゃんのそばにいたほうが受験勉強がはかどると思うよ。じいちゃん、ぼくは最期までじいちゃんのそばにいたいんだからね、帰ろう」
 しばらく天井を見つめたままだった松男さんは、ぼろぼろと涙をこぼし、そのあと顔をくしゃくしゃにして泣き、搾り出すように「良子、リュウ、世話をかけるなあ」と言い、退院したそうです。

ページの先頭へ戻る