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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第72回 刀が必要 2010/5
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 天気のいい午後。訪問看護師の室井さんが、訪問先の笹沢洋平さん(74歳)のマンションのチャイムを押そうとすると、すでにうすく開けられていたドアが開き、洋平さんの娘さんが顔を出します。
「あっ、室井さんどうぞ、お入りください。そして、申し訳ないのですが、少しお待ちいただいていいですか?」
「やはり到着が早かったですね。申し訳ないです。予定の時間にまたまいりますので」
 室井さんは、前の訪問が早く終了したため、洋平さん宅に15分程早めに到着したのでした。洋平さん宅への訪問は今日で3回目です。洋平さんご夫婦は、となりの市からひと月前に娘さん宅へ越してきました。
 <洋平さんがトイレに入ったとか、何かしら取り込んでいる状態なのだな>と考えて、室井さんが玄関から出ようとすると、娘さんが引き止めます。
「お茶をいれますので、どうか、どうか入って、少しお待ち願います」
 娘さんは、室井さんを引っ張るようにして、洋平さんの寝室のとなりにある居間に連れてゆきます。
 居間に座った室井さんの耳に、襖の向こうから、洋平さんご夫婦の会話が聞こえてきます。それも、普段の調子とは違い、お互いを責めているような口調です。室井さんは、つい聞き耳をたててしまいます。すると、二人の話し方が異様であることに気づきます。時代劇のセリフのように、「おぬし」「貴様」と相手を呼んでいるようです。ふざけているのかな、と思えば、そうではなく真剣な様子なのです。
 室井さんが、お茶を運んできた娘さんに「?」の目を向けると、娘さんは室井さんに真剣なまなざしを向け、うなずきます。
 えっ、どういうこと?
 事態が把握できず、首をかしげながらお茶をすすると、隣室からカチャンという金属がぶつかる音がし、と同時に、二人の声が大きくなります。驚いた室井さんが目を丸くすると、娘さんが襖を少し開け、どうぞ見てくださいという仕草をします。
 室井さんがその隙間から覗くと、予想だにしなかった光景がそこにありました。横になっている洋平さんも、妻の静子さんも、なんと刀を持ち、チャンバラのように刃で押し合っているのです。本物の刀のはずがありませんが、窓から差し込む午後の日差しが、刀の刃にきらりと反射します。
 会話の内容もよく聞こえてきて、室井さんは改めて驚きます。
静子さん「貴様、なにゆえに、なにゆえに、昨日の夜中に私を起こしたのだ! 不眠がちの私が、昨夜は、いつもよりぐっすり眠れていたというのに、なにゆえ! 言いたいことは山ほどござる。しかし、たいがいのことは、自分の胸のうちに収めるように努力しているのだ。しかし、昨夜のことは、許せん! 覚悟しろ! 病人といえども、容赦しない。成敗してくれるわ!」
洋平さん「斬れ! 斬って気がすむなら斬ればいい! おぬし、私を斬っても気が済むわけではないということを知っているであろう。それでも斬りたいなら、斬れ! わずらわしい介護から開放され、やりたいことをやれる毎日が手に入るであろう。さっ、斬ってみろ! 斬る勇気もない者が斬るなどと口にするものではない。だいたい、世話をしてくれなどと頼んだ覚えはないのだ。心のどこかで見下されながら世話を受ける身になって考えてみたことがないのであろう」
静子さん「なに! 聞いていれば、好き勝手なことを。ふとどき千万……」
 それからしばらく、刀を交えながらの時代劇っぽい会話は続いたのでした。そして、娘さんが真剣な目でうなずいた意味が次第に室井さんはわかってきたのです。
 ご夫婦は、時代劇っぽい会話の形を借りて、相手へのつのった不満をぶつけているのでした。また、刀はその設定に入りやすくする道具であるらしいこともわかってきたのです。

 その一風変わった喧嘩のようなものが終わると、ご夫婦はスイッチが切れたかのように、いつもの穏やかな二人に戻り、何事もなかったかのように室井さんを迎えたのでした。室井さんも、あえて驚きの場面のことにはふれずに、予定のケアを行いました。
 ケアが終了して帰る際、玄関を出たところで娘さんがいいました。
「驚かれたでしょうね。一瞬、あの場面をご覧いただくかどうか迷ったのですが、これから長く見ていただく室井さんには見ておいてほしいと思いました。いいタイミングにお越しいただいてよかったです。両親は、父が病気になって以来、関係が悪くなり、離婚話も幾度となく出ていたのですが、4、5年前から、ときどきあれをやるようになり、とてもいい関係になりました。あれは、はたから見たらこっけいに写るかもしれませんが、両親が時間をかけて編み出した、本音をぶつけあう方法なんです。真剣な行為であり、あれをしなければ一緒に過ごしていけない必要不可欠なものなんです。娘の私としては、ちゃかしたりできない、厳かな感覚さえ覚える時間でもあります」
 そこまで言うと娘さんは笑顔になり、こう続けます。あれを見てると、なんだか、この二人の子供として生まれてよかったなって、思ったりもして、誇りのようなものを感じます。あれを、笑わないで見てくれた室井さん、ありがとうございます。でも、思い出すとぷっと噴き出してしまうことがあるんですけどね、だって、おぬしって、ねえ」
 おもちゃだけれど、とてもリアルにできている刀剣は、洋平さんのベッド下にいつも置いてあると娘さんが教えてくれました。長らく闘病を続ける洋平さんと、それを支えてきた妻の静子さんに、室井さんは尊敬の念を抱いたそうです。

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