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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第73回 最後の夜勤 2010/6
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 18時過ぎの某病院。
 夜間体制となり、正面玄関ではなく救急外来近くの出入り口を人が行き交っています。その通路に設置された机上で、面会の人たちが名簿に記載し、バッヂを受け取って病室へと向かいます。
 面会者の応対をしているのは、守衛の北林さん(男性・70歳)です。彼は穏やかな笑みを浮かべていますが、ときおりシャープな表情になって、院外へ出てゆく人を目で追います。
 北林さんは今日の勤務を最後に退職します。
 最後の夜勤という今日、ひとことでもいいから言葉を交わしたい人、その人が通るところを彼は見逃がしたくないのです。
 その人、とは病棟勤務をしている20代のナカジョウさんというナースです。
 北林さんがナカジョウさんの存在を知ったのは一年ほど前でした。彼女の「おつかれさまです!」の声や笑顔は実に爽やかで、彼の沈んだ気分が一気に晴れました。思わずそれを話した同僚に、「北さん、知らないの? あの子はいつも明るくて気持ちいい挨拶をしてくれるんで、ありがたくてね。うちらのあいだで、ジュースをおごってあげたい人の堂々第一位に輝いた人だよ」と言われました。
 以来、北林さんもナカジョウさんのファンになり、彼女が勤務を終えて帰るときや深夜勤務入りで病院にやってきたときに挨拶を交わすことが、とてもたのしみになったのです。ちょうど、守衛室メンバーのリストラの噂がたちはじめたころで、メンバー間のトラブルなども起き、守衛室内の雰囲気はとてもどんよりとしていました。メンバー中の最高齢で一番のリストラ候補と予測される北林さんは、ためいきばかりの日々でしたが、ナカジョウさんと挨拶を交わしたときだけはすかっと気分が晴れるのでした。
 その後、北林さんはリストラの心配ばかりしていても仕方ないと考えるようになり、守衛室のメンバーで自主的な勉強会をしようと提案し、実行しました。テーマは、「院内暴力対策」。院内暴力には、①身体的暴力(傷害・暴行)、②精神的暴力(言葉の暴力・いじめ・セクシャルハラスメント・いやがらせ・脅迫・強要・名誉毀損など)、③器物の破損などがあり、それらの対応法や、暴力発生時の院内の連絡網などを確認し、守衛としてできることなどを検討しました。上司に、「君たちがそんな勉強会をしても、経営難は変えることはできない」などと嫌味を言われても、彼らはこつこつと勉強会を続けました。
 ひと月前の午前零時過ぎのことです。北林さんが夜勤で守衛室内にいると、救急外来の方向から「キャ」という女性の声がかすかに聞こえてきたのでした。廊下に出てみると、救急外来の奥にあるトイレのほうから、ナカジョウさんが足早に出てきました。ジャケットの肩が脱げており、ブラウスの胸元は不自然に開いていて、髪は乱れ、顔はこわばっていました。北林さんは心配になり、彼女に声をかけようとしました。彼女は、北林さんに気づくとはっとしたような表情になり、なにも言わず背を向けてスタスタと出口へと向かいましたが、ぴたりと足を止めて振り返り、笑顔になって北林さんに言いました。
「大丈夫ですよ。おつかれさまです! 失礼します」
 その直後、足音がしたほうを北林さんが振り向くと、パジャマにガウンを羽織った男性が、ナカジョウさんが出てきた場所と同じところから現れ、エレベーターのほうへ歩いていったのです。
 以来、北林さんは、ひとり悩むことになりました。これは、院内暴力事件ではないのか。いや、そこまでではなく、恋愛のもつれのようなもので、だからナカジョウさんは「大丈夫」と北林さんに言ったのではないか。いや、でも、患者さんが院内暴力を起こす背景には病気があり、それをわかるスタッフは暴力を跳ね返せないばかりか、自責の念に陥ったりすることがあるらしいから、もしかして彼女もそうなのかも……。
 ナカジョウさんは、その後も北林さんやほかの守衛さんたちに、いままでのような爽やかな挨拶をしましたが、北林さんだけは、彼女の挨拶のトーンがほんの少し暗く変化したように感じました。あの夜、あの場面に遭遇したため、そう思えてしまうのか、と自問をしましたが、それでもやはり、変化したように思いました。どこかが違う。やはり、あの夜、辛い体験があったのではないか。もしかしてそれがいまも続いているのではないか。ナカジョウさんの思いをいろんな方向に考えるにつれ、北林さんは心配がつのりました。
 しかし彼は、どうにもできなかったのです。本人が被害を申し出たくないかもしれないし、あるいは上司にきちんと話し、すでに解決されたのかもしれない。いずれにしても、北林さんの出る幕はないとも思われました。しかし、「もしかして嫌な思いが続いていて、本人にはどうにもできないのかもしれない」と考えると心配でした。
 北林さんは、最高齢の自分がリストラされるのは仕方ない、と考えていますが、守衛として、最後にナカジョウさんに役立てることがあるのではないかと思っていました。今日、もしタイミングよくナカジョウさんと会うことができたなら、「大丈夫ですか?」と声をかけ、それができなければナカジョウさんの幸せを願って、心をこめて会釈をしようと考えているのです。
 21時過ぎ。「あっ」という小さな声がしたので、北林さんが廊下に出てみると、なんと、ナカジョウさんが廊下に手と足をつき、起き上がろうとしているところでした。
「だ、大丈夫ですか?」
「大丈夫です。不注意でころんでしまって」
 どうやら、廊下にこぼれていた水分ですべってしまったようです。北林さんは言います。
「あなたが不注意だからころんでしまったわけじゃありません。あなたが悪いわけじゃないです! お怪我はないですか?」
「大丈夫です」
「あの、突然に恐縮ですが、私、今日で退職します。いままで、あなたの爽やかな笑顔にはずいぶん励まされました。ありがとうございました」
 北林さんは、こんなふうに接することができたのはなにかのご縁と考え、思い切ってそう言ったのでした。そして、「で、ほんとうに大丈夫ですか?」と聞いたのです。いまの出来事についてではなく、3月前のあのときのことを思って、真剣にじっと目をみながら。するとナカジョウさんは複雑な表情になったあと目をそらし、服についた汚れを払って、「ご退職なさるんですね。お元気で」とそっけなく言い、頭をさげて、帰っていったのです。
 こうして北林さんの最後の夜勤は終わりました。

 その翌日、ナカジョウさんは患者さんから暴力を受けている事実を、決心して上司に訴えたのです。その後病院は、しかるべき対応をしました。それを北林さんが知ることはできなかったのですが。

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