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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第74回 返事がない 2010/7
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 午後。某病院の個室病室に、ナースの池野さん(二十代後半の女性)が入ってきます。
 彼女は、ベッド上に仰向けに寝ている男性患者さんの足元のあたりで足を止め、名前を呼びます。
「畑山さん……」
「………」
 返答はありません。畑山眞一さん(87歳)は、二日前から意識がはっきりしない状態となりました。
 池野さんは、畑山さんの枕元に行き、もう一度名前を呼んでみます。しかし、返答はありません。
 池野さんは、規則的に呼吸をつづける畑山さんの口元を見つめながら、心の中でつぶやきます。
<あんな約束、しなければよかった……>
 三週間前、畑山さんは、緩和ケア病棟であるここに他病院から移ってきました。
 彼のご家族の強い意向で転院してきた面があるらしく、ご本人はその点に不満があるようでした。彼はだんまりを決め込み、スタッフの呼びかけや問いかけに対し、ほとんど返事をしませんでした。イエスなのかノーなのか、首を縦に振ったり横に振ったりするだけでした。
 そんなある日、畑山さんの受け持ち看護師の池野さんは彼に言いました。彼の目をじっと見て真剣にです。
「声を使ってご返事していただけませんでしょうか」
「………」
「お願いです! 畑山さんは発声できるのですから。使える機能を使わないなんて、とてももったいないです。私は、声の使い方にはその人らしさが強く出るものだと考えています。私は、畑山さんの声がほとんど聞けず、つまりは畑山さんらしさがいまいちわからず、残念です!」
 だんまりの原因と思われる転院への不満については、病棟の看護師長が彼とじっくり面談しようとしていたので、池野さんは別の方向からアプローチしようという考えがあり、このような言い方になりました。また、何度も声をかけているのに声を出して返事をしてくれないことを、池野さんはとてもさびしく思い、少し冷静さを失って、気持ちをぶつけてしまった部分もありました。
 彼女は、小さいころ、近所の仲良しの女の子の家の生垣のところに行って「あやこちゃん、あそびましょ!」と声をあげるのが日課でした。家の中から「はーい」と返事があり、一緒に遊びました。用事があり家にいない場合には、あやこちゃんは必ず前もって知らせてくれました。ある日、何度声をかけてもあやこちゃんのご返事がないのであきらめ、翌日も生垣のところからあやこちゃんに声をかけたのですが、返事がありませんでした。返事がないことが不思議で心配でたまらなくて、池野さんは何度も何度も何時間も繰り返し声をかけ続けました。しまいには声がかれてしまい、その場で泣いていると、ちょうど自転車に乗ったおまわりさんが通りがかり、それがきっかけであやこちゃん一家(お父さんとお母さんとあやこちゃん)が家の中で心中していることがわかったのです。近所づきあいをしない家だったため、それまで誰も異変に気づかなかったのでした。
 畑山さんは、池野さんの気迫に圧倒されたのか、目を丸くし、口をぽっかり開けたままとなりました。
 池野さんは続けました。
「お願いです。声を出してご返事してください。声の調子などを確認しながら畑山さんとおつきあいしたいんです!」
 すると、池野さんを観察するような目になった畑山さんが声を出したのです。
「で、でも、しかし、人間、返事ができないときだってあるだろ」
「そりゃ、そうですよ。誰だって、できないときはありますから、できるときに声を出してご返事していただきたいのです」
「それならいいけど」
「約束ですよ!」
「わかったよ」
 以来、畑山さんは声を出して返事をしてくれるようになったのです。彼がだんまりを決め込んでいた理由は、新しい環境に慣れずに緊張していた面もあったようで、池野さんをはじめスタッフたちと声を出してやりとりするうちに慣れてリラックスしたのか、冗談なども言うようになりました。とくに池野さんがベッドサイドにやってきたときには上機嫌で、彼女が入室して「畑山さん」と声をかけると「おーい」「ほーい」「よう」などいろんな返事が返ってくるのでした。とても表情豊かな声でした。
 そんなある日のことです。池野さんがベッドサイドに行き「畑山さん」と声をかけると、彼は天井を見つめたまま黙っています。池野さんは、咄嗟に彼の脈をとりながら顔をのぞきこみます。すると、畑山さんの目からは涙が耳のほうに伝っていました。畑山さんはくぐもった声で言いました。
「池野さん、ものすごくさびしいときだけは、返事はしなくてもいいという約束に変更してください」
「わかりました」
 大親友が亡くなったことを知らされたときだったことを、その後のご家族の話で池野さんは知りました。
 そしていま、畑山さんは意識レベルが低下し、名前を呼んでも返事がありません。変更した約束のことが頭にあるので、返事をしないことが<ものすごくさびしい>を連想してしまって、池野さんは辛いのです。また、畑山さん自身も混濁する意識の中で、<いま返事ができないのは、ものすごくさびしいからじゃないんだけど>ともどかしい思いがあるかもしれない、とも彼女は思うのです。

 夕方、日勤勤務のリーダーだった池野さんが、ナースステーションで夜勤の同僚に引継ぎをしています。ひとりひとり担当の患者さんたちの容態を伝えてゆきます。そして、畑山さんのところになり、夜勤の同僚がいいます。
「そういえば、こないだの深夜勤務のとき、朝方、池野さんへの伝言を頼まれてたんだ。<もう、私はだめかもしれないから、約束は果たせなくなる。約束はナシってことで>だそうです」
 返事がなくても、ものすごくさびしいわけではないから。そう伝えようとしていたのかもしれない。そう思い、池野さんは胸が熱くなったそうです。

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