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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第75回 記録されないこと 2010/8
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 19時過ぎ。
 某病院のナースステーションで、ナースの山本さんがパソコンの前に座っています。日勤の定時は17時15分で、ほかの日勤ナースはみな帰ってしまいましたが、山本さんは居残って看護記録をしているのです。
 ナースになって二年目の山本さんは、文字入力の手をとめ、心の中でつぶやきます。
<大竹さん、私、もうだめかもです。仕事だって遅いし>
 そして彼女は、大竹さんとのやりとりを思い出します。大竹恭治さん(当時63歳)は、山本さんが学生時代に実習で受け持った患者さんです。
 あれは受け持って三日目のことでした。大竹さんのバイタルサインや症状などについて、山本さんがせっせとメモしていると、大竹さんが言ったのでした。
「そうやって、ぼくのデータを記録するわけですね。その記録が診断とか治療に役立つんだろうね。うん、大事なことだ。しかし…」
 <自分のことがどんなふうに記録されるのか心配なのかしら>
 そう思った学生の山本さんは、メモ帳を開いて大竹さんに見せながら言いました。
「あの、いま測定させていただきました体温や脈拍や血圧などと、さきほど大竹さんがお辛いとおっしゃった便秘でお腹がはって苦しいことなどのみ記録させていただきます」
「あっ、そう。いや、別に、ぼくは記録されることにケチをつけたいわけじゃないんだ。ただ、あなたがいつもせっせとメモをとる様子を見ていてね、記録しないこと、記録されないこと、それも大事にしてほしいって思ってね」
「は?」
「えーとね、ぼくは子供のころ、銭湯に入ったとき、風呂からあがって飲むのは、だんぜんフルーツ牛乳だった。コーヒー牛乳ではなくフルーツ牛乳派。だから、この病棟のロビーに毎日回ってくる牛乳屋さんが銭湯にあったフルーツ牛乳と同じのをワゴンに載せて売っていることを知って小躍りしたんです。それとね、あなたがさっきこの病室に入ってきたとき、ぼくはテレビで時代劇を見てたでしょ、退屈そうに。たとえばね、これらのことは、どうでもいいことで記録なんかしないでしょ」
「はぁ」
「でも、この、どうでもいいささいなことを、かかわりのあったあなたが知っているということが重要なんです。記録されないぼくのことをあなたは知っている。その事実がぼくを支えるんですよ。別に、これとこれを知っていますよとわざわざ患者本人に告げなくても、知っているという事実が見えない力となって患者を支えるんです。ナースになっても、そのことを大切にしてほしいと思います。お願いします」
 山本さんは、こっくりと頷きながら、内心で感動していました。ものすごく附に落ちた気がしたからです。
 看護学生になり、実習を重ねるにつけ、山本さんは不安がつのっていました。患者さんの手をとりながら会話したり、シャンプーをしたり、足浴をしたりしても、患者さんを近くに感じることができず、患者さんの疾患のことや退院後の生活のことを看護の視点で整理したり分析したりしても、なにか映画でも見ているような感覚がありました。
 それで山本さんは<私って人への関心が薄いタイプなのかな、それは一人っ子の上に一人遊びばかりして過ごしてきたからなのか。ナースの適正がないのかも>と考えることもありました。
 しかし、大竹さんのフルーツ牛乳や時代劇ドラマの情報を意識してみると、大竹さんが目の前にいる実感がわいてきたのです。現実の生身の人間として感じられました。<これで私はナースとしてやっていけるかもしれない>と思い、大竹さんにかけがえのないことをおしえてもらったと山本さんは思いました。
 その後、山本さんはナースになり、日々、大竹さんからアドバイスのあった「記録されないこと」を意識して、患者さんに接してきました。そのお陰で、まだまだ経験が浅く未熟な自分を感じ落ち込むことが多々あっても、看護することを好きでいることができました。
 山本さんは、パソコンへの文字入力を再開します。今日かかわった患者さんの情報を入力します。<Aさんは、となりの病室の患者さんとネグリジェがかぶってたからと違うものを買ってきてとご家族に頼んでいたな><Bさんは、たまたま知り合った同姓同名の人とメールのやりとりをはじめたって言ってたっけ><Cさんは、いまとなっては珍しい金歯が自慢で、白い歯に替えたほうがといわれてもそのままにしている><Dさんは、タオルのふちを指の腹でなぞるのが好き>記録しないことも思い出しながら、パソコンには必要なことのみ記録していきます。
 と、また山本さんの手がとまってしまいます。
<大竹さん、こんなこと思うのは甘えた人間だからかもしれませんが、私は、私自身のことを誰かが知っていてくれている事実はないように思うんです。いままでは、なんとなく「知っている」という見えない力で支えられていた感触があったのですが、いまは感じられないんです。もちろん、同僚たちも友達と言える人もいます。でもその人達は、患者さんでいえば記録に載る情報くらいのことしか私のことを知らないような気がしているんです。つまり、最近、私はとても孤独を感じています。私は全力で、患者さんたちの記録されないことを記憶しているのに、私のことは…>

 勤務を終えて病院を出た山本さんは、いつも立ち寄るコンビニにふらりと入ります。すると、何度か顔を見たことがある店員さんが、山本さんの顔を見るなりにこっとして、レジ横のホットボックスを指さして「今日はありますよ」と口を動かします。からあげくんレッドのことでした。山本さんが買おうとすると、いつもちょうど売り切れたばかりで、「お待ちいただければすぐ新しいの揚げますので」と言われ「いいえ、じゃあいいです」と山本さんは応えるのです。
「じゃあ、からあげくんレッド、ください」
「かしこまりました」
 その声を聞き終えると山本さんは、「よかった」と小さくいい、わんわん泣いてしまいます。からあげくんレッドがあったことよりも、からあげくんレッドが好きだということを店員さんが覚えてくれたことがうれしくて泣けてきたのです。
 店員さんは山本さんの号泣に驚き、そのからあげくんレッドをプレゼントしてくれたそうです。

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