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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第77回 右手 2010/10
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 夕方。某病院のナースステーションで、看護師の磯原さん(35歳)がパソコンに向かっています。日勤勤務で行った看護の記録をしているのです。
「磯原さん。ちょっと、よろしいでしょうか?」
 ナースステーションの入り口で女性の声がします。声の主は、磯原さんが担当している患者・多田健二さん(70歳)の妻の弓子さん(68歳)です。磯原さんに話を聞いてほしくてやってきたのです。
 磯原さんは、となりのパソコンに向かっているナースに目配せをしてから、弓子さんのほうに顔を向け、笑顔になり、うなずきます。
 弓子さんの夫の多田健二さんは、容態が思わしくなく、医師からご本人と弓子さんに「月単位と考えたほうがいいかもしれない」と余命にかんする説明が5日前にありました。
 余命の話があった翌々日、弓子さんは磯原さんのところにやってきました。担当医から余命の話があったときには落ち着いた様子の弓子さんでした。しかし、当然、ショックは大きいだろう。多田健二さんの担当ナースとして、妻の辛い気持ちの表出をしっかり受け止めよう、磯原さんはそう思いました。弓子さんに貸すためのハンカチを密かに準備してです。
 しかし、弓子さんにハンカチを貸す場面はなかったのです。弓子さんは、派手目にばっちりメイクした顔を磯原さんの顔に近づけ、眉をひそめて言いました。
「主人、妻の私にむかって<いちいち詮索するな!>って怒鳴ったきりだんまりなんですよ。まったく、頭にきちゃう。ぜったいに、ぜったいに理由を言わせなくちゃ、あー、くやしい」
 弓子さんの夫の健二さんは、余命の話があった翌日から、右手、厳密には右手の平を触らせなくなり、その理由を聞いてもおしえてくれず、気になって何度もたずねると、しまいには怒鳴ったというのです。多田健二さん自身は、磯原さんをはじめ病院スタッフに対しては穏やかな態度でした。弓子さんがつけ加えました。
「あの人はいっつもそうなんです。怒鳴って私を黙らせる。右手はね、減るから触らせないんですって。意味わかんない。なにか私に知られたくない秘密があるんですよ。ぜったい、つきとめてやる。あの人の数々の疑惑を私はこれまであばいてきたんですから!」
 弓子さんの目がぎらりとひかりました。
「また、報告させてくださいね。はい、これ」
 弓子さんは、磯原さんの手に飴玉を持たせて病室に戻っていきました。
<これも余命告知による動揺のあらわれなのかもしれない>
 磯原さんはそう思って、少しのあいだ様子を見ることにしました。多田さんは入院して間もないため、ご夫妻それぞれの性格や夫婦の関係などが磯原さんはまだよくわかりませんでした。
 そして弓子さんは、磯原さんを訪ねて頻繁にナースステーションにやってくるようになったのです。
「磯原さん、わかりましたよ! というか、たぶんそうだと思うんですけど、主人は昔、代議士だったんですね。で、そのころは、よく、<この右手は有権者のみなさまに、私の政治への熱意を伝えるためにあるんだ。大事な右手なんだ>って言ってたんです。それを思い出して、私に威張るために右手を触らせないのかもしれません!」
「磯原さん! やっと推理できましたよ。あれは、女ですよ、女。今日ね、主人は私に、<この右手は、減るから触らせないんだ!>って怒鳴ったんです。それでピンときましたよ。私がいないところを見計らって、女がお見舞いにきて、その女と右手で手を握り合ったんですよ。浮気なんか、どうってことないんですけどね、憎たらしいったらありゃしない。まったく、どんなふうにこらしめてやろうかしら」
 いつもと変わらずに力のこもった声でした。しかし、磯原さんは弓子さんのひとつの変化に気づいていたのです。弓子さんは、会うたびにメイクが薄くなっていきました。それは全体に薄くなるのではなく、ひとつずつメイクの工程が省かれていくのです。最初は真っ赤な口紅が塗られなくなり、次はブルーのアイシャドウがなくなり、次は頬紅がなくなり、眉がなくなり…。いつも決まったメイクの工程があり、メイクをはじめるものの、どうしても途中で手が止まってしまう。そんな様子を磯原さんは想像しました。<夫の余命告知があまりにもショックで混乱しており、弓子さん本人は、自分のその変化を気づいていないかもしれない>。そして磯原さんは、新人ナースのころに担当したKさん夫妻のケースを思いだしたのです。
 Kさん(74歳)は、脳出血で意識不明となり入院し、人工呼吸器が装着されました。その際、治療などについてのご意向をたずねると妻は、「なんでも主人が決めますから、どうするか主人に聞いてみないとわかりません」と応え続けたのです。意識が戻らない夫をじっと見つめながらです。
 弓子さんの話に、これまでは聞く一方の姿勢をとっていた磯原さんですが、そろそろこちらからなんらかのアプローチをしたほうがよいかもしれないと考えはじめたところでした。
 いつもの弓子さんなら背筋を伸ばしまっすぐ前を見ているのですが、いま、ナースステーションの入り口に立っている彼女は、肩を落とし、口は半開きで不安気な表情です。ファンデーションを塗っただけの顔が青白く見えます。磯原さんはあわてて彼女に歩みよります。
 すると、弓子さんは磯原さんの肩に手を乗せ、「主人、私を怒鳴らないのよ。あんなに弱気なあの人を見たの、はじめてです」と言って、ぼろぼろと涙をこぼしはじめます。
 今日、弓子さんにいつものように右手を触らせない訳を問われた多田健二さんは、怒鳴らないばかりか、しゅんとした様子で「実は…」と話し出したといいます。医師から余命の説明があったその夜、別の病院で闘病中の健二さんの幼馴染の男性のお孫さんが突然見舞いにきたそうです。「握手の仲介にきました。いま、祖父と握手してきたばかりのこの手と握手してください。祖父が、ともにがんばろう、と伝えてほしいということです」といって健二さんと握手したのだとか。そして今朝、その幼馴染の男性が亡くなったことを健二さんは知ったのだそうです。
 その場で崩れるようにしゃがみこみ、「主人はなんで、怒鳴ってくれないのかしら。調子くるっちゃう」と泣きながら繰り返す弓子さんの背に手をあてながら、磯原さんは夫妻のサポートしっかり行っていく決意をしたそうです。

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