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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第78回 カナブン aaaa/aa
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 夕方。某病院の職員用ロッカールーム。新人看護師の千葉純一さん(23歳)は、ロッカーの鏡で自分の顔を睨んでいます。彼は今日、ある患者さんの急変のシグナルを見落としてしまいました。先輩ナースが気づかなければその患者さんは急変していたかもしれなかったのです。自分の未熟さを痛感した日勤勤務でした。このところ、そんな出来事が多く、新人なのだからベテランナースのようにはいかないとはいえ、落ち込みがちの千葉さんです。入職してから7か月で10キロ痩せてしまったことも、仕事のプレッシャーが体重に出てしまうほど神経がやわなタイプであることを示しているようで、千葉さんとしては嬉しくない事態です。
 千葉さんは、目を閉じ「カナブン…」とつぶやくと、両頬を手のひらでパンッと叩き「んっ」と気合を入れるような声を出します。
 カナブンとは、千葉さんが中学入学前まで過ごした家のご近所の石野正二さんのあだ名です。建売住宅が並ぶ地区の一角に、千葉さんの家と石野さんの家がありました。千葉さんは母子家庭で、お母さんは仕事に出ていたため、いわゆる鍵っ子でした。石野さんは、妻に先立たれ、ひとり娘は海外に嫁ぎ、一人暮らしをしていました。
 ある日、虫好きの千葉少年(当時、小学2年生)が、蝶を追って石野さん(当時70歳)宅の庭に入ったのがきっかけで、二人は友達になりました。会った初日、庭に面した部屋のベッドにうつぶせ寝をしていた石野さんは、そのまま少年を部屋に招き入れ、こういいました。
「純一君、だったね。虫好きのようだから君にだけは告白するが、私はカナブンの生まれ変わりなんだ。私はうつぶせで寝るのが大好きで、いまはもううつぶせでなければ寝られないようになったんだ。でね、うつぶせがこんなにも性にあうのは、私の前世がカナブンだったからだという結論に至ったんだ。純一君なら信じてくれるな」
 千葉少年は、石野さんにじっと見つめられ、<こんなに真剣に言うのだからほんとうに違いない>と思い、うなずいたのでした。すると石野さんは満面の笑みをたたえて、こう続けたのです。
「私も虫が大好きだから、これからいろいろ虫の話をしようよ。年はすごく離れているけど、友達になってください。そして私のことはカナブンと呼んでくれ。私は純一と呼ばせてもらう。あっ、それと、私がベッドの上で仰向けになっているときは死にそうなときだからね、死んだカナブンもよく仰向けになって落ちてるだろ。だから、もし私がベッド上に仰向けになってたら、すぐに救急車を呼んでほしいんだ、頼んだぞ、ワハハ」
 以来、千葉少年は学校帰りにちょくちょく石野さんを訪ねるようになりました。少年は石野さんがしてくれるいろんな虫の話が大好きでした。石野さんも千葉少年がやってくるのを心待ちにするようになりました。少年が来そうな時間になると、庭側のサッシ窓の鍵を開けておき、菓子なども準備し、うつぶせ寝で昼寝をしながら待ちました。少年に日めくりカレンダーをめくらせてやるために、自分ではけっしてめくらないでとって置きました。
 二人が出会って、半年ほどたったある日のことです。創立記念日で学校が休みだった千葉少年は、母親が作っておいてくれたサンドイッチを片手に、いつもより早い昼前に石野さんを訪ねることにしました。いつものように庭から入ってゆくと、鍵がかかっていてサッシ窓が開きません。室内を覗き込んでみると……、石野さんが仰向けになっているではありませんか。少年は、仰向けになっている石野さんをはじめて見て気が動転し、走って10分ほどの小公園内の公衆電話ボックスまで走り救急車を呼んだのです。
「カナブンが、友達が、死んじゃうかも。早くきてください」と泣きながら訴えたのでした。
 少年が急いで石野さん宅に戻ると、すでに救急車が到着しており、玄関前で石野さんが救急隊員に頭を下げて彼らに帰ってもらうところでした。
「カナブン! 大丈夫だったの?」
 少年が目を丸くしてそう尋ねると、石野さんは神妙な面持ちになり、少年を家の中へとうながしました。そして「心配させて悪かったな」と少年に深々と頭を下げ「冗談を真に受ける純一もどうかとは思うが、悪い冗談を言った私のほうが、なんといっても悪いな。謝る。ごめん。でも、本気で心配してくれて、ありがとう」と言うと、声を殺して泣いたのでした。
 その数日後、やってきた千葉少年に、石野さんは真剣な目をして言いました。
「親友として、純一に打ち明けたいことがある」
 妻と結婚するとき「一生守る」と約束したこと、その妻のお墓は地球の裏側のブラジルにあり、仰向けに寝ると妻のお墓に背を向けることになってしまうこと、うつぶせで寝るのは妻のお墓を見守る体勢でいたいからでもあるということを、石野さんは少年に話したのでした。少年は、内心はなんとなく嘘っぽいと思いましたが、親友として信じることにしました。
 その後、千葉さんが遠方に引っ越すことになるまで、二人の交流は続きました。
 石野さんのさまざまな言動について<結局、カナブンは嘘ばっかりだったかも>と千葉さんはあとになって思うようになりました。しかし、千葉さんが引越して間もなく亡くなった石野さんは、一度だけ「カナブンと純一」の二人で撮った写真を死ぬまでとてもとても大切にしていたことと、最後に会ったときに「私はたとえ死んでも親友の純一を応援し続けるぞ」と言ったことはまぎれもない事実で、千葉さんはそれを思うと前向きになれるのだそうです。

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