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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第79回 何のために 2010/12
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 三好節子さん(58歳)は、洗濯機から夫の洗濯物をカゴに移しながらかすかに動揺していました。数分前、訪問看護のナースAさんから、帰り際に玄関でこう聞いたからです。
「何のためにリハビリをしているのか、についてご主人は、入院時の担当ナースに退院間際にこうおっしゃったそうですよ。大事な理由が二つある。一つは、自分でピアノを弾いて妻に聴かせること。奥様が大好きな曲があって、それを弾いてやりたいって。もう一つは…、あれ? なんだったかな、ごめんなさい、度忘れしてしまいました。いずれにしても、奥様思いのご主人ですね。しかも、ピアノを弾いて聴かせるためにって、ロマンチックですね」
「あっ、いえ、そんな…」
 と節子さんは照れているような素振りをしました。しかし、内心では舌打ちしていました。
<そんな話、はじめて聞いたわよ。あの人ったら、うまいこと言っちゃって。ピアノを弾けるようになりたいのは、自分が味わいたいだけ。あの人が若いころ、ピアノを弾いて悦に入っているのを何度目撃したことか。ふん、妻のためって言ったほうが聞こえがいいからそう言っただけよ>
 節子さんの夫・由紀夫さん(59歳)は、脳卒中によって左半身マヒとなりました。救急車で運ばれた病院からリハビリ専門病院に転院し、その後退院。通院しながらのリハビリになりました。昨年結婚した一人娘は遠方に住んでおり、家族としての一切のサポートは節子さんが担っています。
 実は、節子さんは、夫の由紀夫さんが定年退職を迎えたら離婚、いわゆる熟年離婚をしたいと、10年ほど前から考えるようになりました。近所ではおしどり夫婦で通っていましたが、節子さんの心の中では夫に対する嫌悪がふくらんでいたのです。表面的には、夫に穏やかに接していましたが、たとえば洗濯物を自分のものと一緒に洗うのも、将来、同じお墓に入るのも、嫌になりました。<他人に興味がない。心根がとても冷たく、「ごめん」「ありがとう」を人に言うのが嫌いなために、そうならないように一応、妻や周囲の人に気を遣う>
 夫をそんなふうに感じ、我慢の限界となったときに生まれた考え「離婚すればいい」が心の拠り所となりました。ただ、夫の連れ子であった娘にはとても情を感じており、娘の自立を見届けたあとの夫の定年退職時に離婚と決めたのでした。
 今年、由紀夫さんが半身マヒとなり、節子さんは困惑しました。計画どおりに離婚したとしても、その理由が「夫が病気になったからだ」と周囲に思われてしまうのは嫌だと思いました。
 それで考えたあげく、節子さんは夫のリハビリを熱心にサポートすることにしたのです。
<夫にリハビリに励んでもらい、生活に支障がないくらいになったら、そのときに離婚を言い出そう>
 節子さんは、夫のリハビリが進むように食事や生活リズムや内服管理をはじめ、自宅でのリハビリに積極的に取り組み、夫をマメに励ますことも忘れませんでした。<離婚するため>と思えば、がぜん力がわいてきました。根気よく地道に取り組みました。その結果、担当の理学療法士も目を丸くするほど、リハビリが進みました。
 洗濯機に自分の洗濯物を入れている節子さんの手が止まります。出会ったころの由紀夫さんがピアノを弾いて聴かせてくれて、とてもうれしかったことを思いだしたのです。
<あのころの私は、あの人のうわべだけしか見えてなくて、本性を知らなかったからね>

 そのひと月後――。節子さんは、自分の変化に少し混乱していました。夫のリハビリのサポートに熱心になれなくなってきたのです。<離婚するためだよ、がんばれ!>と自分を鼓舞するもののあまり頑張れないのです。はじめは介護疲れが出たのだと思っていましたが、そのうち<もしかして、自分の中に離婚を躊躇する気持ちが出てきたのではないか>と思うようになり動揺しました。<離婚のためにリハビリのサポートをする>は<リハビリが進めば離婚>ということです。着々とリハビリが進んでいる状況は、一歩一歩確実に離婚に向かっているということです。
<もしかして私、離婚したくない気持ちが出てきたの? だから、リハビリが進まないほうがいいの?><まさか、絶対それはない>
 心の中で、そんなやりとりを繰り返す日々となってしまいました。

 それからまたひと月たち、久しぶりに訪問看護のナースAさんがやってきました。Aさんは、節子さんが記録している由紀夫さんの食事や服薬やリハビリのノートが少し気になりました。記入の方法や文字が以前に比べてなんとなく雑になっているように感じました。そして彼女は帰り際に、節子さんにこう言ったのです。
「そういえば、ご主人がなんのためにリハビリを行うのか、の話なのですが、ピアノのほかのもう一つのこと、あの後思い出したんですよ。ご主人は、奥様が万が一体調を崩したりして自力で歩けなくなったとき、自分が車椅子を押してさしあげたいから、そのためにリハビリするんだっておっしゃったそうですよ。そういう本気の目標がないとリハビリというものは、本人もサポートなさる方も続けられるものではないですからね。それと、このことは奥様には絶対にオフレコでって言われたそうですから、ゴメンナサイ、そういうことにしてくださいね」
<私の車椅子を押す? また、嘘ばっかり言っちゃって…。たとえ、それができる身体になったとしても、あの男が、私の車椅子を押すなんてするわけないじゃない>
 心の中でそうつぶやきながらも、節子さんは胸の中を埋めていた硬い何かが静かに融けはじめたような感覚になったそうです。

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