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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第82回 なつかしい人 2011/3
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 おそい夜。
 ナースの白川美樹さん(30歳)は、交際中の木村幸也さん(32歳)と、静かなカフェのカウンターに、肩を並べて座っています。美樹さんは幸也さんに先日プロポーズされ、返事をすることになっています。今夜、返事をするつもりですが、その前に彼女はある話を始めたところです。その話について幸也さんがどんな反応をするかを確認して、美樹さんはプロポーズを受けたいと思っているのです。
 その話とは…。
 美樹さんは、いまから10年前の看護学生時代に患者の雪村さん(当時60代、男性)と出会いました。接したのはほんの少しの時間でしたが、美樹さんにとって忘れられない出会いになりました。
 あの日、雪村さんが受ける呼吸器系の検査を、美樹さんは急遽、見学させていただくことになったのでした。雪村さんと担当ナースと美樹さんが、地下のレントゲン部門の検査室に到着すると、検査をする担当医が30分ほど遅れると連絡がありました。担当ナースは一旦病棟に戻ることになり、雪村さんと美樹さんはその場で待つことになりました。
 車椅子からソファベッドにうつり、横になった雪村さんが、そのそばに立っている美樹さんに言いました。
「学生さん、そこに椅子を出して、座って待っていてくださいな」
 その検査室は、レントゲン仕様のため窓はなく、白い光が室内を照らし、外の気配が遮断された独特の雰囲気がありました。雪村さんの声は小さく細く、そしてしわがれていましたが、室内全体からやさしく響いたように美樹さんには聞こえました。
 会話が雪村さんの負担になってはならないと考え、黙って傍らで座っている美樹さんに、雪村さんが言いました。
「この場所は独特な雰囲気で、なんだか、長い人生のエアポケットに入ったような気がしませんか」
「…はい、たしかに」
 美樹さんがそう応えたあと、ふたたび室内には静寂が訪れました。
 いつもの美樹さんなら、学生ゆえに患者さんのそばにいて沈黙が続いている状況はとても緊張するのですが、このときは不思議と落ち着きました。お互い声を発していなくても、穏やかに会話をしているような感覚になりました。
 担当医を待ち始めて15分くらいたったころ、雪村さんが声を出しました。
「なつかしいっていう言葉はね、ナツク、の形容詞形で、意味は、一、そばについていたい、親しみがもてる。二、心ひかれるさまである、しっくりとして優しい感じである。三、かわいい、いとしい。それから、四、思い出されてしたわしい、などです」
「あっ、はい」と返事しながらも、美樹さんは少し驚きました。なつかしい、は四の意味でしか使ったことがなかったからです。
 雪村さんは、美樹さんの表情を見てにこりとし、言います。
「四の意味で使っている人がほとんどなのですが、私は一のそばについていたい、っていう意味がすてきだと思うんです。あなたには、ぜひなつかしいナースになってほしいと思います」
「はい、なりたいです」
「そして、患者さんにもなつかしい人になってくれるように看護してほしい」
「そうしたいです」
「あなたなら、なれる。私が言うんだから間違いないです」
「ありがとうございます」
 このときのやりとりは、人と人との魂の交流があったような感触があり、美樹さんの胸に深く刻まれました。
 そしてその後、落ち込んだり、めげそうになったりしたときに、必ず風貌や声や雰囲気が雪村さんにとてもよく似ている男性に遭遇し、雪村さんとのやりとりを思い出し、美樹さんは救われた思いになるのでした。そんなことが何度もありました。あるときなどは、職場の悪意うずまく騒動に巻き込まれてノイローゼ気味になり、駅のホームの端の落ちそうな場所にぼんやり立っていたとき、「危ないですよ」と手を引っ張ってくれた男性が雪村さんとそっくりだったのです。
 美樹さんは、となりの幸也さんの横顔を見ながら言います。
「雪村さんとはほんの少し過ごしただけなのに、その記憶が、その後の私の人生の危機を何度も救ってくれているのね。もしかして、雪村さんはずっとどこかから私を見守ってくれているんじゃないかって感じもあって、あの検査室で会った雪村さんは人間ではなく、精霊みたいな存在なんじゃないか、なんてことを思ったり」
 幸也さんは、見つめていた水割りのグラスを静かに置き、美樹さんのほうを向きます。
「美樹、その、雪村さんに出会えて、よかったな」
 美樹さんは、胸の中がじわり温かくなるのを感じます。こんな風に返してくれる人を彼女は待っていたのです。
 実は、過去に交際した二人の男性にも、美樹さんは雪村さんの話をしたのです。一人の男性は、雪村さんの話を聞いたあと、美樹さんの心理を分析するような話をはじめ、もう一人の男性からは、雪村さんに男性として嫉妬したような言葉が聞かれたのでした。
 美樹さんは、幸也さんに応えます。
「……、うん、そうなの、出会えて、よかったの」
 そして美樹さんは、幸也さんに結婚してほしいと伝えたそうです。

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