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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第83回 病院の忘れ物棚 2011/4
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 星名ゆみえさん(28歳)は、T大学病院の病棟勤務のナースです。
 T大学病院の外来エリアの一角に、忘れ物が陳列されているガラス棚があります。院内の忘れ物は一定期間この棚に陳列され、持ち主が見つからなければ倉庫に保管されます。
 勤務の日。星名さんは、ユニフォームに着替え、病棟に入る前に可能な限りその前を通ります。ナースになり、この病院に就職したころからこの棚の存在を知っていましたが、いつも素通りしていました。しかし一年ほど前、夜勤明けで売店に行く途中に、何気なく眼を向けたら陳列物に釘づけになったのです。きちんとアイロンがかけられたハンカチや、使いこまれた眼鏡、そして皮のカバーがかけられた文庫本などを見ていると、持ち主の受診の理由や、その人にまつわる想像の物語が自然に頭に浮かんでくるのでした。忘れ物たちが、なんとなく寂しげにも見えて、さっさと通り過ぎるのができない気持ちもありました。

 二週間前、星名さんは、さくら色の毛糸の帽子をかぶった高齢の女性に出会いました。院内の売店では、オリジナルのプリンが大人気で、星名さんもよく買って食べており、その日もプリン目当てで勤務前に売店に寄ったのでした。そして、星名さんが売り場に一個だけ残っていたプリンに手を出すと、同時にもう一つの手が伸びてきたのです。それがさくら色の帽子の女性でした。
「どうぞ」星名さんは、とっさにその女性にプリンを譲りました。
「え? いいの? どうして?」とその女性は驚いたように目を丸くしました。
「どうしてって、私はいいですから、どうぞ」 「えー? ほんとにいいの?」
 という女性の問いに星名さんはうなずきました。
 すると女性は「優しいのね」というと、涙をこぼしながら「ありがとう」と言ったのです。
 そんなに感謝されるほどのことではないと思った星名さんはいたたまれなくて、すぐにその場をあとにしました。そしてこの出来事を忘れました。

 その数日後、星名さんがいつものように忘れ物棚の前に立つと、見覚えのあるさくら色の帽子が陳列されていました。売店で出会ったあの女性の帽子です。いかにも手編みといったその帽子は、一年中かぶれそうな厚さで、よく見ると赤い糸でイニシャルが刺繍されています。
 <誰かに編んでもらったのだろうか、それとも自分で編んだの?><彼女は外来患者さん? それとも入院患者さんのご家族? だとしたら、あのプリンは自分のためではなかったのかも><それにしても、ただ、普通に譲っただけなのに、どうしてあんなに驚き喜んだんだろう>
 星名さんは、さくら色の帽子を見つめながら、化粧っ気がなく、小柄で、どこか寂しげなあの女性に思いをはせたのです。
 それからは、いつ、さくら色の帽子を彼女が取りにくるのかを確認する意味でも、星名さんは勤務の開始前、終了後に棚をチェックするようになりました。あの帽子は長く愛用されている印象です。たぶん彼女にとって大事な帽子です。それを忘れてしまったとなれば、彼女は必ず探すはずだと星名さんは思いました。
 しかし、いつまでたっても、帽子は棚の中に置かれたままで、星名さんは次第に心配になってきたのです。もしかして、彼女は帽子を探すことができない状態、あるいは病院に忘れたとわかっていても取りにこられない状況になってしまったのではないか。涙をこぼしてまであのときに喜んでいたのは、何か事情があったからではないだろうか、あるいは、あのとき私に話を聞いてもらいたかったのではないだろうか、と。
 そのうち星名さんは、自責の念にかられるようになりました。あのとき、すぐに立ち去るのではなく、どうして彼女の話を聞かなかったのだろう。私は重大な無視をしてしまったかもしれない。手を差し伸べるべきだったかもしれないのに、なぜ気づかなかったのだろう。忘れ物棚にある帽子を見つめながら思うのでした。あれ以降、あの女性の姿は売店でも外来でも見ることはありませんでした。

 今日、星名さんは日勤勤務でした。勤務を終えて忘れ物棚を見に行くと、あの帽子がなくなっていました。まだ、倉庫に保管される時期ではないので、持ち主が取りにきたということになります。
 帰宅した星名さんは、お湯をはった湯船に身体を沈めると、そのお湯の温度がとてもいい塩梅で「あー」という声が自然に出て、さくら色の帽子の件を思い出し、「よかった」と声になりました。すると、両目からどんどん涙が溢れ出し、彼女は困惑しました。最初は汗と勘違いしたくらいなぜそんなに涙が流れるのか不思議に思う彼女でした。そのうち、涙だけでは収まらず、彼女はおいおい泣いてしまったそうです。

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