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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第84回 洗髪 2011/5
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 ある火曜日、一組の若いカップルがのんびりと街の散歩をたのしみました。美容師になりたての武彦さんと、ナースになりたての恵美子さんです。珍しく、ふたりの休日が重なったのです。
 散歩中、武彦さんが彼女に言いました。
「オレ、いま、朝も昼も夜もシャンプーの毎日、新人だからね」
「うん」
「で、何度も店長に言われるのは、恋人だと思ってシャンプーしろってこと。最初はピンとこなかったんだけど、最近はさ、そう思うかどうかでぜんぜん出来が違うのがわかってきたんだ」
「ふーん。どのお客さんに対しても自分の恋人と置き換えてやるって…、どうなのかな」
 彼の恋人としては、あまりうれしい話ではなく、恵美子さんはむっとしてしまいました。
「違うんだ。リアルな恋人を頭に浮かべてしまっては駄目なんだ。実際の恋人とは、喧嘩したり、場合によっては別れてしまったり、生身の関係だから、その時々の感情が指先に出てしまうかもしれないからね。だから、抽象的な恋人とでも言ったらいいかな、思い浮かべるんだ。恵美子もさ、仕事で患者さんにシャンプーするとき、意識してやってみなよ。シャンプーって実に奥深い」
「私がやるのは医療における洗髪だからね。同じ洗髪でも違う、っていうかさ」
 恵美子さんは、彼にシャンプーをしてもらうお客さんたちに嫉妬のような感覚を覚え、咄嗟に嫌味な言い方をしてしまったのでした。それと、実際の恋人について、不満だの別れだのと、彼女にとってうれしくない例えでした。
 それからの散歩は、会話が弾まなくなり、そのままぼそぼそと食事をして、次の約束をせず別れたのでした。ふたりとも仕事上の新人として心に余裕がない時期だったからなのか、縁がなかったのか、半年間続いていた交際は、この散歩のあと自然消滅してしまったのでした。

 その三年後。恵美子さんは、心を閉ざしている患者さんの洗髪をする機会がありました。そのときふと武彦さんが言っていたことを思い出し、「恋人だと思って」洗髪をしたところ、患者さんの心の扉がすんなりと開いた感触があり驚いたのでした。以来、恵美子さんは洗髪時には必ずそのように意識して行うようになったのですが、「ものすごく気持ちよかった」とか「至福の時間だった」と、ときには涙をこぼしながら患者さんらが絶賛してくれるようになったのです。恵美子さんは思いました。
<武彦のおかげだよ、ありがとう。あのときは、不機嫌になってしまってごめんね>
 そして、いつか武彦さんに連絡をとり、お互いキャリアを積んだ二人として会ってみたいなと思いました。あのとき以来一度も武彦さんと連絡をとっていませんでしたが、彼の実家の連絡先を知っていました。

 それから三年。仕事では職場の人間関係に翻ろうされ、プライベートでは結婚を約束していた彼と破局し、かなりトーンダウンしてしまった恵美子さんでしたが、武彦さんが言っていたように患者さんの洗髪をすると、とても充実した気分になり救われるのでした。そしていよいよ武彦さんにお礼を言いたいと考え、連絡をしたのです。本人の電話番号には通じず、実家に電話してみました。
「武彦は……亡くなりました。五年前に」
 恵美子さんは絶句しました。そして、100%元気でいると思いこんでいた自分を強く嫌悪したのです。病気や事故。人はいつどうなるかわからない。それを日々、仕事をしながら痛感しているはずなのに…。
 それ以来、洗髪は彼女にとって辛い仕事になりました。洗髪にとりかかるとどうしても武彦さんとのやりとりを思い出し、そして自己嫌悪に陥るのです。なんとかプロとして気持ちを切り替えて行ったとしても、髪を洗い終え、患者さんの顔にかけていたタオルを外す直前にかならず、亡くなった武彦さんの血色のない顔が現れる気がして、手が止まってしまうのでした。沈んだ気分がこれからずっと続くのではないかと恵美子さんは不安になりました。
 彼女は、迷った末、武彦さんの実家を訪ねました。お線香をあげ、お墓参りをさせてもらうことが心の整理につながり、前向きになれるのではないかと思ったのです。
 彼のお母さんは、恵美子さんの来訪を喜び、武彦さんの話をいろいろしてくれて、最後にこう言いました。
「で、虫の知らせみたいなものがあったのかもしれませんが、息子は、私があの子の勤務先に行くのをいつもはとても嫌がっていたんですけど、どういうわけか、事故にあう数日前に、<シャンプーしてやるから店にこい>って何度も誘うので、店に行ってやってもらったんです。そして、私のシャンプーをしながら<シャンプーって、してもらう人もする人をもたすけるすごいものなんですよ>って、照れくさいのか、変に他人行儀に言ったんですよ。私の顔にはタオルがかかっていて息子の顔が見えなかったからでしょうかね。そのときの息子の声は、鮮明に、鮮明に記憶に残っています。特別にやさしい声でした」

 それから二十年がたち、現在の恵美子さんは某病棟の看護師長をしています。隙あらばスタッフから洗髪業務を横取りして行う洗髪大好きナースとして有名です。「洗髪はね、してもらう人もする人をもたすけるすごいものなのよ。元彼がおしえてくれたの」というのが口癖だそうです。

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