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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第85回 握手 2011/6
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 半年前のことです。
ナースの野本さん(35歳)は、波野良平さん(80歳)の訪問看護を終えた帰り、その近所のパン屋さんに寄りました。調理パンやサンドイッチがおいしそうで、昼食を買うことにしたのです。十文字パンという小さなお店。
 野本さんが入店すると、訪問先だった波野良平さんの孫娘さんも買いにきました。そして彼女は、パン屋の女主人サダコさんに野本さんを紹介しました。
「彼女、今、おじいちゃんの訪問看護を担当してくれているの。今日も身体拭きやマッサージをしてくれて、おじいちゃん、すっごく喜んでた」
「へえ、良平さんの、そうなの…」
 十文字パンのサダコさんは、色白でふっくらとした体型で、清潔感のある女性でした。70歳前に見えましたが、あとになって80歳になることがわかりました。
 サダコさんは、もう一度「そうなの…」とつぶやきながら野本さんの手のあたりをじっと見つめ、次に顔をあげて言いました。
「あの、握手してくださいません?」
「は?」
 患者さんとなら、手をとったり握手したりする場面の多い野本さんですが、このように握手を求められたのは初めてです。
「ねっ、いいでしょ。その手で患者の手当てをしていらっしゃるのよねえ。その手に触れたいなあ。なんか、私もご利益ありそうですもの。お願い!」
 サダコさんは拝むように手を合わせました。
 野本さんが戸惑いながら右手を出すと、サダコさんは野本さんの左手もぐっと引き寄せ、両手で彼女の両手を包み、味わうかのように目を閉じたのでした。
 以来野本さんは、波野良平さん宅の訪問後にはかならず十文字パンに寄り、サダコさんと握手をするようになったのです。ちょうど昼食のタイミングであること、調理パンがとてもおしいこと、それとサダコさんから「また絶対に、訪問の帰りに寄って、そして握手してね。あなたと握手すると、とても気分がすっきりするから」と強い希望があったためです。〈看護師の手に対するイメージがサダコさんの気分をすっきりさせるのだろうな〉とサダコさんの願いを冷静に受け止めた野本さんでしたが、握手だけでそんなにも喜んでくれることが嬉しくもありました。
 週一回のペースで野本さんは、波野さん宅の帰りにサダコさんと握手を重ねました。サダコさんはいつも、野本さんの手と大切そうに、そしてしみじみと握手しました。時には、野本さんの両手のひらをしばらく見つめた後、いとおしそうに、その手のひらに頬を押しつけたこともありました。
 そして先日、波野良平さんが亡くなりました。亡くなった日は、十文字パンには寄らなかったため、後日、挨拶をするために野本さんはお店を訪ねました。すると、サダコさんの態度ががらりと変わってしまい、野本さんは内心たいへん困惑したのです。まるで、通りかがりの初めてのお客でも入ってきたかのように硬い笑顔を見せ、野本さんが言葉を発しようとすると、それをさえぎるように「何になさいます?」と言い、さっさと買い物をして早く帰ってほしいような態度でした。今までなら、何はさておき握手をしたがったのに、サダコさんはパンのショーケースの向こう側から出てこようとさえしませんでした。
 その変わりようにショックを受けた野本さんは、その場にいたたまれず、パンも買わずにお店を後にしましたが、その後、体調でも悪いのではないのだろうかとサダコさんが心配になりました。サダコさんはお店兼自宅に一人住まいなのです。
 野本さんはその近所の蕎麦屋に入り、注文のときにおかみさんらしき人に言いました。
「私は、波野さんのお宅に訪問看護で通っておりました者ですが、十文字パンのサダコさん、体調でも悪いのかもしれません。なんとなく様子がおかしいような気がするんです」
 すると、おかみさんは、野本さんにこう耳打ちしたのです。
「そりゃあ、気を落とすなっていうのが無理なの。実はね、亡くなった良平さんとサダコさんはね、若いとき、駆け落ちまでした仲だったのよ。二人は、五十年あまり隣に住んでいながら、その長い年月顔を合わせてないはず。そんなこと、良平さんの孫娘とか、若い人は知らないだろうけど」
 駆け落ち後、一切、顔を合わせないと約束をして、二人が近所に住むことを許され、その後良平さんは別の女性と結婚して子供も持ち、サダコさんは独身を通したといいます。
 野本さんは、サダコさんが握手を求めてきた真の意味がわかったように思いました。サダコさんは、間接的に良平さんに触れようとしていたのではないか。良平さんが亡くなり、野本さんには用が亡くなったことが素直に態度に出てしまったのかもしれない。そう考えると、サダコさんのすべての行動と言動に納得できる気がしました。
 サダコさんの恋情が、今ごろになって自分の手にぴりぴりと伝わってくるような感覚になり、野本さんはどきどきしたそうです。

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