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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第86回 大きな贈りもの 2011/7
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 夕方。
 ナースの関野なみ子さん(32歳)は、彼女の職場である某病棟のうす暗いリネン室に立っています。誰かがぶらさげた鏡を、電気もつげずにのぞきこんでいます。
 リネン類を取りに急いで入るだけの部屋なのに、なんのためにリネン室に小さな鏡がぶらさげられているのか、関野さんは、ずっとその意味がわかりませんでした。しかし、いま、病棟の気配を遠く感じるリネン室で、いつもより目力がある気のするモノクロの自分の顔を眺めていて、ここに鏡がある理由がわかった気がしました。
<そうか、みんな、仕事の合間に自分の顔をのぞいて何かを確認しているのかも>
 関野さんは、今朝、看護師長に退職願いを提出するつもりで出勤しました。そのために、日勤後に看護師長との面談の約束をしていました。
 そして、つい先ほどまで、関野さんの辞める決意はまったく揺らいでいませんでした。退職を機にナースの仕事を辞めようという考えもです。
 辞める理由はひとつではありませんが、最も大きな理由は「ナースという仕事が性に合わない」です。10年の経験をして、やっと出た結論です。
 ナースになりたてのころ、ベテランのAさんと話したことを関野さんは今も鮮明に覚えています。Aさんは言いました。
「この仕事を続けていくとね、患者さんがふともらした一言や、患者さんの生き様など、自分の人生の支えともなるような、心が震えるような大きな贈り物を絶対に受け取るのよ」
「あの、絶対にですか?」
「そう、絶対に」
「続けても受け取れないという人は…」
「この仕事が、性に合わないのです」
 ベテランのAさんが、そうきっぱりと断言した点に、関野さんは何よりも驚いたのでした。その、断言する感覚が私の肌に合わない。そんなふうにも感じました。
 それから10年経ちました。仕事を覚え、それなりに看護に手ごたえも感じて勤務を続けてきましたが、ベテランのAさんが言ったような「患者さんからの大きな贈り物」を受け取った感触はないのです。
<私は多くのナースに比べて、かなりドライな性格だから、たとえ患者さんから大きな贈り物があっても、それを受け取る手を持っていないのだろう>
 関野さんはいしつかそう思うようになりました。
 看護師長に話す退職の理由は、「疲れたから」にしようと決め、日勤が終わり、看護師長との面談に行くため、ナースステーションを出たそのとき、車椅子に乗った高齢の男性に遭遇しました。
「あーれ、関野さんじゃないか」
「あっ、吉川さん」
 関野さんは訪問看護ステーションで働いた時期があり、彼はそのときに訪問担当をした吉川裕次郎さんでした。少し前にこの病院に入院し、いま、その病棟から関野さんの病棟に移ってきたということでした。
 関野さんに会った途端、表情がぱっと明るくなった吉川さんは、彼女の手を取り言いました。
「あなたにはね、助けてもらったんだ。あなたは、あのとき私に、<別の希望を言っていい>と言ってくれてね、私にとっては重大なことをね、あなたはやってくれたの。それはね――」
 吉川さんは、自宅のトタン屋根に雨が落ちる音を聞くのが大好きで、昔は亡くなった奥さんとともにそれに耳を澄ましたもので、雨の日はその音がよく聞こえる部屋で寝たいという希望があったが自力では動けませんでした。
 関野さんが勤務していた訪問看護ステーションでは、当時、帰り際に、「もうひとつナースにやってほしいこと」を伺うようにしていたのでした。ある雨の日、関野さんは帰り際に、「いま、遠慮して言えなかった、ほんとうはこれをしてほしい、ということおっしゃってください」と言ったそうで、「隣の部屋で寝たい」と希望を言うと、その理由を聞かずにそうしてくれたのだといいます。
「些細なようで些細ではないんですよね。関野さんがああしてくれたとき、生きてるのも悪くないなって思ったんだから。あのときは、ありがとう」
 関野さんは、吉川さんと握手しながら<私にも受け取る手があったのかも>と思いました。
 吉川さんと別れた関野さんの足は、看護師長との面談の部屋ではなく、すぐそばにあるリネン室でした。
<Aさんは、患者さんからの贈り物を受け取るタイミングが絶対にやってくるということを断言していたのかもしれない>
 退職を告げるのをぎりぎりで止めるかのようなタイミングに、吉川さんに会えたのは、彼女にとって大きな贈り物でした。

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