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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第87回 二度と会いたくない人 2011/8
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 午後。とある学会の年次大会の会場。
 大会の参加者が縦横に行き交うなか、ナース・滝川恵美子さん(32歳)は、足のマッサージ器売り場のそばに立っています。目を丸くし、口をぽっかりと開けて、呆然とした様子です。少し前にすれ違った女性が誰だかわかった途端に、そうなってしまったのです。
 すれ違った女性とは、10年前、滝川さんがナースとしてはじめて勤務したA病院の先輩ナース・大志田さんでした。滝川さんは、東京のA病院に2年間勤務して退職し、次に就職した九州の実家近くの病院に現在も勤務しています。
 A病院を退職した理由は、大志田さんの存在でした。
<一時たりとも、大志田さんと同じ空気を吸いたくない>
 心からそう思うに至り、大志田さんから離れなければ、心が壊れると確信したのです。
 大志田さんは、5歳下の滝川さんに対し、厳しく指導するだけでなく、いつも辛くあたり、ことごとくいじわるでした。滝川さんのミスをわざとフォローしなかったり、引継ぎを無視したり、伝達事項を滝川さんにだけ伝えなかったり、ふたりだけになったときにけちょんけちょんに仕事ぶりをけなしたり…。「どうしてあなたがナースになれたのか、すごく不思議」と耳元で何度も大志田さんにささやかれた滝川さんは、そのときの耳の感触を思い出すと、今でも吐き気をもよおします。二度と会いたくない人です。
 A病院を辞めたばかりよりは少なくなったものの、いまでも大志田さんにいじめられている夢を見てうなされることがある滝川さんです。勤務先の九州の病院では、さすがに大志田さんに会うことはない(彼女は今もA病院に勤務しているという情報がある)と考えることができリラックスしていられますが、学会ともなると、全国から会員が集まるので、大志田さんも会員で、学会にやってくるという可能性もあると思い、不安がありました。
 その不安が的中し、数分前に、足のマッサージ器売り場前で大志田さんとすれ違い、滝川さんは足がすくみ、いわゆる「固まった」状態になってしまったのでした。
 A病院をやめて10年もたつのに、大志田さんにこれほど反応してしまうのは、彼女をどうしても許せない一件があることも関係しています。
 許せない一件とは――。
 滝川さんがA病院に就職して2年目を迎えたある夜のことでした。滝川さんは、大志田さんともう一人の先輩ナースAさんとともに深夜勤務につきました。前日に、珍しく大志田さんが滝川さんに機嫌よく「明日の深夜、病棟が落ち着いてたら、なにか作って三人で夜食を食べようか」と声をかけてきたので、滝川さんがそうめんを作ることになったのでした。
 滝川さんの部屋には、最愛の祖母が送ってくれたそうめんがありました。<こちらから積極的に誠意をもって接すれば、大志田さんだって私に辛くあたらなくなるかも>と思い、大切に少しずつ食べていた、とっておきのそうめんを提供しようと決めたのです。
 そして深夜勤務となり、病棟が落ち着いていたので、滝川さんはそうめんをゆでました。薬味も十分に準備して、三人でナース休憩室のテーブルにつきました。
「おいしそうじゃない」
 そう言いながら大志田さんは、そうめんを取り、めんつゆにつけると、「あら、髪の毛」とつぶやき、すっと立ち上がり、流しの三角コーナーにそうめんを迷いなく捨てたのです。そして「なんだか、食べたくなくなっちゃった」と言って、部屋を出てゆきました。
「髪の毛なんてないわよ。嫌だね、大志田先輩。気にせず食べよう」
 2年上の先輩ナースAさんにそう言われたものの、大切な祖母が侮辱された感覚になり、滝川さんはくやしくて悲しくて、涙をぼろぼろこぼしたのでした。祖母からの大切なそうめんを捨てたことが許せませんでした。
<このことをあの人は微塵も覚えていないだろうに、私の頭には辛い記憶としてはっきりと残っている>
 そう思うと、くやしさがこみあげてきます。
<どうしよう、ポスターセッションにあの人がやってきたら…>
 認定看護師は、5年の更新制で、その間にはそれなりの実績を積まなければなりません。滝川さんも認定看護師の実績づくりのひとつとして、この学会ではポスターセッションにエントリーしています。そのポスターの前に一定時間立ち、質問者に応じることになっています。ちょうど、これからがその時間なのです。
 滝川さんがポスターの前に立っていると、はたして、大志田さんがやってきました。それに気づいた滝川さんが、視線をあさってのほうに転じて動かないでいると、大志田さんは滝川さんのポスターの前に1分ほど立ち、部屋を出ていきました。滝川さんが立っていたことも、そしてポスターの作者が昔、いじめていた後輩であることにも気がつかなかったかもしれない、と滝川さんは思いました。
 言いようのない疲労を感じながら、引き続きポスター前に滝川さんが立っていると、会場の係りの人がやってきました。
「滝川さんですね、大志田さんという方が渡してほしいと、これを」
 レジ袋に入った、会場で売られているお土産用の菓子でした。メモがついていました。
「滝川さん、立派なナースになりましたね。その節は、いじわるばかりして申し訳ありませんでした。素直で堂々としているあなたが眩しかったのだと思います。そのころの私はプライベートで辛いことが重なって…。そうめんをわざと捨てたのも申し訳ありませんでした。お菓子、よかったら、職場へのお土産として使ってください。大志田」
 さしあたり、そうめんの件は心中で許すことができたそうで、学会に出るとこんな予想外の出会いもあるのだな、参加してよかった、と滝川さんは思ったそうです。

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