Archive

小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第88回 引継ぎ 2011/9
dotline

 午前10過ぎ。ナースの竜崎さんは、自宅内の掃除をしながら「申し送り」について思い出しています。
 彼女は現在、ナース紹介所に登録し、派遣されたその日その日の場所で、健診の手伝いをしたり、修学旅行の救護班として同行したりなどフリーで働いています。病院に8年勤務した後、この仕事を選び12年続けてきました。厚生年金も健康保険もボーナスも退職金もありませんが、スケージュールを自分都合で調整でき、例えば、思い立ったときには長期海外旅行に行くことも自由にできる今の仕事が気に入っています。それと、病院勤務では不可欠の「申し送り」の必要がほとんどないことも彼女にとって魅力なのです。
 2年前に、郊外の住宅街の中古一戸建てを手に入れて入居しました。念願だった生垣と庭のある家は、日当たりが良く、小さいながらも大好きな我が家となったのでした。独身の彼女は、まだ高齢ではないものの、終の棲家としてこの家を大切にして暮らしてゆきたいと考えています。
 今日は朝から、市のシルバー人材センターの三人の男性に、枝や葉が伸びてしまった生垣や庭のかしの木の剪定をしてもらっています。三人の男性の朝の挨拶は、とてもきびきびした職人さんらしい調子で竜崎さんはたのもしく感じました。彼らが自分の家の庭のためにもくもくと働いている気配を感じると、なんだか嬉しくて、掃除の動作にリズムが出てきます。
 モップの手を止めて彼女は心の中でつぶやきます。
<それにしても、どうして私、申し送りのことなんて急に思い出したんだろう。せっかくいい気分で掃除をはじめたのに>
 彼女は、「申し送り」が苦痛で病院を退職したと言っても過言ではありません。勤務していた病院では、まずは病棟全体の申し送りをスタッフ全員がナースステーションで立ったまま行い、次にチームに分かれて引き継いでいました。日勤リーダー→準夜勤者→深夜勤者→日勤リーダーへとです
 はじめに行う病棟全体の申し送りについて竜崎さんは、次のように考えていました。
・結構時間がかかるのに、なぜ立ったまま行うのか。そのために貧血を起こして倒れたナースもいるのに、なぜ座るようにしないのか。
・受け持ちチーム以外の患者さんの状態を聞いても、結局はおおまかにしか情報が頭に入らないことが多く、全体の申し送りで聞いているから皆わかっている、という過信を生んでしまい事故やミスにつながりかねない。現に、全体の申し送りを聞いて勘違いをし、担当チーム外の患者さんのケアをしてヒヤリとしたというケースが何件も起きている。
 また、チームごとに分かれて行う申し送りには、次の点が気になっていました。
・時間をかけて行うことが手厚いケアの証であるかのように時間をかける。
・全体の申し送りで伝えられた情報がもう一度伝えられる。
・どれだけ忙しく大変な業務だったかを、ドラマチックに熱く語る。
・仲の良い引継ぎ相手には、他のナースの悪口などの私語をたっぷりはさむ。
・状態に変化のない患者さんについても、一人ひとりの名前を読み上げ、変わりないことを伝える。記録を見ればわかることもわざわざ声にして伝える。
・申し送りの途中で、後輩を叱ることで申し送り時間を大幅にとる。指導・教育は大事だが…。
 以上のように、時間を消費するわりに、肝心な伝達事項が伝わらない場合があり、竜崎さんは申し送りのあり方にかねがね問題を感じていました。それで、業務見直しのひとつとして、取り組んでみたいと主任に提案したのでした。すると、そのことを「批判」ととらえ、彼女を快く思わないナースが数名出現したのです。
 そんなある日のこと。準夜勤務についた竜崎さんは、夕方の検温の際に、男性患者Aさんに、受け持ち医との面談の調整を頼まれたのでした。遠方から弟さんがやってくるタイミングにどうしても面談してほしいとのことでした。その受け持ち医は海外出張先から帰る飛行機に乗車中の時間だったため、翌朝の日勤者に医師とコンタクトをとってもらわなければならず、その旨を深夜勤務者に伝えたのでした。
「弟さんはこのふたつの日時しか病院に来られないそうで、どちらかにどうしても高須先生に会いたいそうです。どうしても。ですから、日勤さんに送ってください。お願いします」
 口頭だけでなく、メモも渡しました。申し送りをした深夜勤務者は竜崎さんを快く思っていないらしいナースのひとりでした。
 伝わらないと困ると思い、朝方に日勤のリーダーに電話を入れた直接、伝達確認をしようかとも思いましたが、すると、準夜さんを信用していないということになり、角が立つと思いやめました。そして、竜崎さんは2日間の休暇に入ったのです。
 2日ぶりに病棟に出てみると、例の件は準夜勤者から深夜勤者に伝えられなかったためトラブルに発展していたのでした。あの夜、準夜だったナースは「聞いてない」「メモももらっていない」と言い、「竜崎さんは、自分のミスを私になすりつけようとしている」と騒ぎました。
 何よりもショックだったのは、面談の調整を希望した患者Aさんの怒りの言葉でした。
「あれだけ何度も念を押して、遠くから来るからって頼んだじゃないか。結局、先生には会えないで帰ったよ。ナースさんよ、何が大事ってこういうことが一番大事なんじゃないの? 人間としても。最低だよ」
 弟さんは、アメリカから一時帰国したそうで、病弱なため、次はいつ来られるかわからないということでした。
 その後も、竜崎さんを快く思わない人たちによって、似たようないじめが続き、次第に彼女は申し送りが苦痛になり、申し送りという言葉を口にするのも嫌になり、「引継ぎ」と呼ぶようになったのでした。そして、半年後に竜崎さんはその病院を辞めたのです。
 お昼近くになり、竜崎さん宅の玄関のインターフォンが鳴ります。彼女が受話器をとると、シルバー人材センターの男性の声がします。
「奥さん、終わりましたので、日報にサインと印鑑をお願いします」
 玄関で男性から日報用紙を受け取ると、そこには男性三人の名前が書かれており、竜崎さんは申し送りを思い出した訳がわかったのです。なんと、目の前に立っている男性は、あのとき、受け持ち医との面談の調整を頼まれた患者Aさんだったのです。名前を見て、その人だとわかりました。
 Aさんは、驚いて目を丸くしている竜崎さんを覗き込み、言います。
「もしかして、○○病院のナースさんかね。私、入院してお世話になったことのあるAです。私、あんたを怒鳴ってしまったからねえ、謝りそびれてそのままになってしまったから、余計覚えているんだわ」
 あの後Aさんは、竜崎さんが伝達を怠ったのではない、と受け持ち医から聞いたのだそうでした。彼が頭を手でかきながら続けます。
「いやー、あんなに強く怒鳴りつけてしまって、後味が悪くてね。あの後、実は弟は元気になってまたやってきたんですよ。いやいや、悪かったね」
「いいえ、ありがとうございます。あの、私、奥さんじゃないんです!」
 竜崎さんは、ほっとしたような気持ちになり泣きそうになってしまい、それを知られるのが恥ずかしいので、ごまかすために咄嗟に独身であることを告げたのでした。
 縁は奇なもの。その後、Aさんが取り持ってくれた男性とご縁があり、現在、その人と結婚を前提に交際をしているのだとか。

ページの先頭へ戻る