Archive

小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第89回 プルスレート 2011/11
dotline

 午後2時になろうとしている某ナースステーション。
 ナースの牛島ユミさん(25歳)が、記録の手を止めて、ちらりと時計に目をやり、つぶやきます。
「いかなきゃ」
 今日はチームリーダーで、これから午後の検温を行う予定なのです。担当チームのすべての患者さんのベッドをまわります。
 その牛島さんのとなりで記録をしているナースが、思い出したように「そうだ、お脈をとりましょう」と言って、となりに座る牛島さんの手首に指を当て、10秒ほど脈を見て「オッケー」と言います。
「サンキュ!」
 と言って牛島さんは、検温のための必要物品を持ち、ナースステーションを出て行きます。
 牛島さんは、検温に行く前には、できるかぎりそばにいるナースに脈をとってもらっています。気付け薬のような意味を持っています。以前は牛島さんのほうから頼んでいたことなのですが、そのうち同僚ナースの周知のこととなり、そばにいるナースのほうから気づいて行ってくれることが多くなりました。

 3ヶ月ほど前、牛島さんは、患者さんの脈をとるのが苦手になってしまいました。きっかけとなる出来事があったわけではないのですが、いつのまに、脈をとるのが恐ろしいような感覚になってしまったのです。聴診器でハートレートを確認したりするのは問題なく行えるのですが……。患者さんの脈が、一打ずつ牛島さんの指の腹に、強くなにかを訴えているように感じられ、脈の感触は、牛島さんの頭のてっぺんから足の指先までびんびん響き渡り、全身が硬直してその場から動けなくなるような感覚になってしまうのでした。とくに、脈をとられている間に、牛島さんの顔をじっと見つめているタイプの患者さんの場合、牛島さんに「早く家に帰してください」「辛い」「せつない」「悲しい」「この苦痛をどうにかしてください」と言葉より饒舌に訴えているような気がして、その場から逃げ出してしまいたくなるのでした。また、一度に何人もの患者さんの脈をとる必要がある検温は、とても荷が重く感じられるのでした。

 こんなことでは、ナースを続けてゆけないかもしれない。
 そう思い牛島さんは、医療と関係のない職業についた幼馴染A子にその旨を電話で打ち明けました。同僚や看護学校の同級生には言えませんでした。
「最近、そんな感じなのよ。私、異常だよね」
「うーん、どうかなあーー。よくわかんないけど、あっ、そうだ! あの先生にピアノを習ってたのが関係してたりして。ほら、香山先生にはさ、よく言われたじゃない。弾いてる指のその感触を音と同時に全身で感じなさい、指の感覚を脳で堪能しなさいって」
 牛島さんは小3から高校卒業まで、幼馴染のA子は小2から中学卒業まで、同じピアノ塾に通っていたのです。確かにそれが関係しているかもしれない。でも、もしそうだとしても、ピアノの先生を恨むのは筋違いだし、それが解決策にもつながらない、と牛島さんは思いました。
 牛島さんが、電話を耳にあてたまま黙ってしまうと、A子が明るく言います。 「あっ、思いついちゃった! 実はさ、去年、私、入院したんだけどさ、看護師さんに脈をとられているときって、なんともいえない安らぎのようなものを感じたのね。自分の容態をみてくれているというのと、短い時間だけれど触れていてくれるというのを実感するからかな」
「え? 入院したなんて、はじめて聞いた。大丈夫なの?」
「ぜんぜんよ。3日間だけの検査入院だったんだもの。でね、思いついたのは、患者さんの脈をとる前に、同僚の看護師さんに、ユミ自身が脈をとってもらうのよ。そうすれば、<脈をとられる患者さんはこれで安らいでいるんだ>と思うことができて恐ろしい気分にならないかも。子供みたいな発想だけど、どう? でへ」

 牛島さんが早速それを試してみると、思った以上に効果がありました。恐ろしい感覚が消えるわけではありませんが、その場から逃げ出したいような衝動におそわれることはなくなりました。
 それと、同僚たちの対応もありがたいものでした。検温前に、脈をはかってほしいと頼むと、快く引き受けてくれたのです。みなが、その理由を問わないでくれたことも、意外であり、そしてありがたいことでした。
 また、先日、ある研修に参加し、心電図のモニターの誤作動(ほかの階の患者さんの異常波形を受信してしまっていた)であることに気づかず、さらにプルスレートをとらずに、モニターの波形を信じ込んでしまい、間違った投薬をしてしまうところだった事例を知り、脈をとる重要性を改めて確認できたことも、シャキッと背筋が伸びて、脈の恐さなど吹き飛んでゆく思いになれたのでした。
 そして、つい昨日、実家の母からA子のことを聞き、気が引き締まり、しっかり仕事を続けていこうという気持ちになったのです。A子の昨年の入院は、検査入院ではなく、実際は過労のために肝臓を悪くし、入院はひと月に及んだそうなのです。A子が牛島さんを心配させないように明るく接してくれたことを知り、とてもありがたく思うと同時に、俄然力がわいてくるのでした。

 牛島さんは、明日からは、同僚たちが気をきかせて脈をとろうとしてくれても「もう大丈夫」と言おうと思っているのです。

ページの先頭へ戻る