Archive

小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第92回 遠隔ケア 2012/2
dotline

 2月のはじめ。看護師の桂木響子さん(39歳)が、実家の門前で、迎えに来たタクシーに乗り込んでいます。たくさんの手荷物とともに。
 響子さんが乗り込むうしろから、彼女の母の早苗さんが、運転手の男性に向かって、「○○駅までね、娘をよろしくお願いします!」と幼稚園児を託すかのような口調で声をかけます。響子さんは少しイラッとします。
 響子さんの実家は、東京から電車を乗り継いで2時間ほどの小さな町にあります。地元の高校を卒業して東京の大学に入って以来、年に2回、実家への帰省を繰り返してきました。ずっと一人身のため、帰省パターンは学生時代から長らく変わりませんでしたが、数年前からは盆・正月から少しずらした時期に帰省するようになりました。また、実家から少し離れた特急が止まる駅まで車で送迎してくれていた父の辰男さんが5年前に亡くなり、それ以降は、実家と最寄り駅の行き来にタクシーを利用するようになりました。
 今日の午後、響子さんはリップクリームを買いに、散歩がてら実家から歩いて近所の昔なじみの薬局を訪ねると、店主のおばさんが言いました。
「お母さん、お正月には寝込んでしまってたいへんだったわねえ。まさか、体温計が壊れていたとはねえ。そういうことは、そばにいて、額を触ったりしなければわからないことだもんねえ。壊れた体温計はずっと7度台を表示してて、受診して病院ので測ったら9度台だったんでしょ。売ってる立場で言うのもなんだけど、器械を過信しちゃいけないわねえ」
「壊れてたんですか?」
「え? 聞いてなかったの?」

 響子さんは、父の辰男さんが亡くなって以来ひとり暮らしとなった母と、電話や携帯メールで連絡を密にとるようになりました。早苗さんの日々の体調を把握して、具合が悪くなった場合には、どう過ごしたらいいか、病院に行くべきか、などこまかなアドバイスを続けてきました。響子さんにとって早苗さんは労わりの対象にしか見えなくなっていました。
「こういうことを遠隔ケアっていうのよ。本格的なのとは違うけど、離れた場所からケアするということでは同じだから」
「そうなの。いつも遠隔ケアありがと。心強いです。看護師の娘を持って幸せです」
 そんなメールのやりとりをしたこともありました。
 そして、今年のお正月。体調を崩した早苗さんの電話での訴えや声の調子などから、風邪症状だろうと思ったものの、響子さんはとりあえずの診察をすすめました。インフルエンザも心配でした。しかし早苗さんが「熱もないし、受診は億劫」と言うので、響子さんは、ならばあと一日様子をみてもいいでしょう、としました。一人でタクシーを呼んだり、待合室で待ったりするのは辛いだろうと考えたのです。
 その翌日の夕方、日勤を終えると、早苗さんからメールが届いていたのでした。「その後、身体が辛くなったので病院行ったら、インフルエンザだと言われ、点滴してもらい帰ってきました。楽になりました。予防注射やっててもかかることあるんだってね」

 響子さんは、近所の薬局からの帰りに<どうして体温計の壊れを私は疑えなかったのだろう>と自分へのくやしさがこみあげると同時に、早苗さんの身に何かあったならどうしようという不安でいっぱいになりました。そしてそのうち、薬局のおばさんの「そばにいて、顔をさわったり…」という言い方が、一人娘がそばにいないことへの皮肉に思えてきました。また、体温計の壊れを疑えなかった響子さんのプロ意識を傷つけまいとして早苗さんはこのことを隠していたような気がしてきて、だんだん腹が立ってきました。
「お母さん! 体温計が壊れてたこと、どうして言わなかったのよ!」
「え? どうしてって…、あれ? 言わなかったっけ?」
「なによ、とぼけて。大事なことじゃない! 遠隔ケアだなんて偉そうなこと言ってるけど、たいしたことないじゃないって思ってるんでしょ。だから気を使って言わなかったんでしょ、ばかにして」
「はあ?」何年も娘に対して怒ったことのなかった早苗さんが、かちんときた表情で声をあげました。「なによ、その言い草! 大ベテランなのに、そんなふうに変に自信がないから、屈折して、私からの遠隔ケアだって素直に受けられないのよね」
「はあ? なによ、母さんの遠隔ケアって」
「響子のご縁を考えて、いいお相手になりそうな方をいつも探しているんじゃない」
 早苗さんは、あちこちに手を回し、ときどき東京での合コンをセッティングして、響子さんに参加させようとするのです。
「いい迷惑なのよ!」と響子さん。
 それからしばらく二人は口喧嘩を続けました。何年ぶりかの母娘の喧嘩でした。
 響子さんは、タクシーを見送る母の途方にくれたような寂しそうな表情を思い出し、喧嘩したことを後悔していました。

黙って運転を続ける運転手さんに言います。
「実は今日、母と喧嘩してしまったんです。ちよっと、まずかったかな…」
「そんなことないですよ。親としては、娘の元気な顔が見られればいいんですから。それに、顔を突き合せないと喧嘩になりにくいものです。喧嘩になったってことは、顔を合わせたという証拠。だから、喧嘩だって嬉しいんですよ」

 響子さんは、たまに早苗さんと喧嘩するために帰省の回数を増やそうかな、と考えているそうです。

ページの先頭へ戻る