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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第96回 時短ナース 2012/6
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 夕方。M総合病院の5階にある喫茶コーナー。
看護師の石神響子さん(40歳)が、窓の外をぼんやりと眺めながらコーヒーをすすっています。午前中は半日勤務、午後は看護研究の仲間と資料整理とディスカッションを行い、いま、ほっと一息ついているところなのです。今夜の深夜勤務入りに備えて、早めに帰り、できるだけ多く仮眠をとらなければと思うものの、あることに迷い、彼女は帰るに帰れないのです。
 彼女の迷いとは――。院長室前に設置されている通称・直訴箱に手紙を入れて帰るべきかどうか、です。M総合病院の院長は、院長業そっちのけで、趣味の油絵に打ち込んでいるという噂がある人ですが、直訴箱の手紙には必ず目をとおし、できるだけの対応をしようとしてくれるのです。手紙をきっかけに英断をくだしたこともあり、院長は職員にわりと人気があるのです。また、院長自らが企画・編集し職員向けに年4回発行している院長便りには、直訴箱にどんな内容の声が届いたか、院長の見解とともに毎回掲載されます。
 石神さんは、18年前にこの病院に新卒で入職しました。そのときに同期入職した同い年の美樹さんとは、その後親友になりました。その後2人は、職員旅行をきっかけに院内の男性看護師の2人と4人で遊ぶようになり、やがて2組のカップルとなり、まずは美樹さんカップル、次に石神さんカップルが結婚しました。
 石神さんたち4人の仲の良さは、院内でも有名でした。お互いの家に頻繁に行き来し、定期的に旅行にも行っていました。
 そんな4人の関係に変化が生じたのが、2年近く前のことです。美樹さんの妊娠がきっかけでした。両カップルとも、子どもがほしいことはお互いにわかっていました。しかし、4人でいるときにあまりそれを話題にすることはありませんでした。石神さん夫婦は、子どもがとてもほしくて数年前に検査をしたところ、夫の身体が子どもをつくりにくい状態であることがわかりました。しかし、美樹さん夫妻にそのことは伝えませんでした。
 美樹さんの妊娠がわかり、石神さんの夫が塞ぎこむようになりました。仕事上のミスもあり彼はさらに塞ぎこみ、そのうち精神科に通うようにもなりました。それを受けて石神さんは、美樹さん夫婦と少し距離をおいたほうがよいと考えるようなり、そうしました。すると両カップルは、次第に関係がぎくしゃくしてきて、美樹さんのお腹が目立つころには、ほとんどやりとりをしなくなったのです。
 そして、いまから3ヶ月前、育児休業期間が終了した美樹さんは、短時間勤務制度を利用する時短ナースとして職場復帰したのです。そしてまもなく、美樹さんへの職場での風当たりが強いらしいという噂が、石神さんの耳に届くようになりました。美樹さんは、M総合病院において時短ナース第1号であり、看護師長がそのマネジメントに慣れていない面があるらしいのです。さらに、同僚たちも受け入れに戸惑っており、忙しさでいらついたり、種種の不満がつのると、美樹さんに八つ当たりをするらしく、「いじめといっても過言でではないくらいひどいらしいよ」という噂になっているのです。
 いまは距離をおいているものの、長らく家族のようにつきあってきた仲なのです。石神さんはなんとかしてあげたいと思いました。しかし同時に、逆の感情もふくらむのでした。<なんでも思い通りになってきたんだから、それくらい仕方ないじゃない><愛らしくて頑張り屋で、前向きで、っていう朝ドラのヒロインみたいなキャラクターだから、いじめられやすいのよ>という意地悪な気持ち。石神さんの葛藤がはじまりました。休職中の夫に、そのことは話せませんでした。
 そして昨日、やっと気持ちの整理ができて、時短ナースの美樹さんへの個人攻撃を批判し、制度を定着させるために必要なディスカションが必要であることなどを直訴用の手紙にまとめたのでした。その手紙が彼女のポケット内にあります。さっさと院長室前に行って投函すればいいのに、なぜか足が向かないのです。いざ、手紙を出しにいこうとすると、くやしいような感情がどっと押し寄せてくるのです。
 <あっ、美樹……>
 ぼんやりと眺めていた玄関前の大木の横を、足早に門に向かう美樹さんの後姿に気付きました。髪をうしろにひとつにくくり、荷物をぱんぱんにつめたバックを両肩にかけています。
 <こんなとき、ころんだら、美樹はすぐには起き上がらないのよ。少しじっとしてて、次に「ばかだな、自分」という顔をして、「いたたた」と顔をしかめながら、肘を擦りむいて血が出ているのも気付かずに歩きだす。周囲がどうにかしてあげなきゃと思う独特の間を持っているのよ。美樹はいつだって、最終的には自分の思い通りになるように周囲をしむけるのよ。甘えるのがうまいし>
 石神さんがそんなことを思っていると、なんと、美樹さんが派手にころんでしまいます。
 <あっ>
 石神さんは、ころんだあとの美樹さんの様子に圧倒されました。マシンガンでしたたか打たれて倒れたターミネーターが、すっくと立ち上がり、目標に向かって歩いていくのを連想するほど、美樹さんはさっさと立ち上がり、背筋を伸ばし、バッグを肩にかけなおし、前を向いてたったったっと歩きだしたのでした。その、微塵も甘えた素振りのない美樹さんの様子に石神さんは胸打たれました。何度ころんでも、すっくと立ち上がり、たったっと歩き出すのだろうと思わせる、大きな覚悟の塊のような姿だと石神さんは思いました。葛藤がすっと消えてなくなったのを彼女は感じました。
 石神さんは、すみやかに院長室前に向かったそうです。

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