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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第97回 ピースサイン 2012/7
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 昼過ぎ。
 看護師の桜田梨恵さん(32歳)が、自宅マンションのベッド上に仰向けになり目を閉じています。深夜勤務明けの梨恵さんですが、眠れぬまま、洗濯機が動く音に耳を傾けています。
 彼女は困惑しています。普段どおりの行動はできていても、なんとなく心の奥底にたまっていて、放っておいたら心身に悪影響がありそう。そんな落ち込みを感じたとき、いままでは、自分なりのセルフケアをすればなんとか気持ちを建て直すことができていました。映画のDVDを繰り返し見たり、デパートや書店を何日もぐるぐると早足で歩き回ったり、ライブコンサートのDVDを見ながら踊りつづけたりなど、欲するままに何かを続けていると、そのうちに気が済んできて落ち込みから脱け出せていました。しかし今回は、なぜかそれがうまくいかないのです。
 二週間ほど前から、彼女の在宅中は洗濯機がつねに稼動している状態となりました。一人暮らしの彼女の洗濯は二日に一回程度で十分なのですが、無性に洗濯がしたくなり、洗えるものは次々と洗濯するようになったのです。それを続けながら、いつものように仕上げに「あれ」を思い出せば落ち込みからは完全に脱け出せる、と梨恵さんは考えていました。
 「あれ」というのは、看護学生時代に実習で受け持った患者のBさん(47歳・男性)がピースサインをしてくれた場面のことです。実習を終えて病室を離れるときに、梨恵さんが挨拶をすると、Bさんは無言で、小さくうなずきながらピースサインを返してくれるのでした。立てた人指し指と中指を、何かを言っているかのようにぴこぴこと二回屈伸させました。「じゃあね」とか「またね」と言っているかのようなピースサイン。それをしているBさんは、大柄で頭は角刈りで強面なのです。角刈りのクマのぬいぐるみがしているみたいで、ずっと年上のそれも患者さんに対して失礼だとは思いながらも、可愛くて、おもしろくて、帰宅して布団に入ってから、思い出し笑いをしたことが何度もありました。
 梨恵さんは、Bさんに聞いたことがありました。
 「Bさんのピースサインは、ぴこぴこってなさるとき、なにかおっしゃっているようにも見えるのですが……」
 「ふふ……なんて言ってる感じに見える?」
 「じゃあね、とか」
 「はずれ。私の指は、ガン、バレって言ってるんです」
 病気で入院中の患者さんが、何一つ健康不安のない看護学生にがんばれと言ってくれていることに梨恵さんは感謝の思いで一杯になりました。そして、それができるBさんを人間として尊敬しました。
 梨恵さんが二十代後半になったある日のことです。あることで落ち込んで、お風呂の湯船の中で大きくため息をついたあとに目を閉じると、ずっと忘れていたBさんのピースサインの場面を思い出しました。すると、昔、布団の中で思い出し笑いしたときのように、おかしさがこみあげてきて、落ち込んだ気分が吹き飛んだのでした。以来、落ち込んで立ち直るとき、その仕上げに目を閉じてBさんのピースサインを思い出し、落ち込みから脱け出す、ということを繰り返してきました。
 今回の落ち込みのきっかけとなったのは、看護師の裁判例とその解説が収められている法律関係の本でした。本の中に、ケアの現場でなにかしらの事故が起きてしまった場合、当事者となった看護師が、「この体制ではいずれ事故が起こるかもしれないと危険性に気付いていたか」、そして「危険性に気付いていたから何らかの行動を起こしていたのか」という点が、裁判官の判断に大きく影響する、というくだりがありました。なんら危険性を感じず行動を起こさなかったナースより、危険性に気付きながらも何も行動をとっていなかったナースのほうが、危険回避義務を求められる度合いが高く、つまり、有能な看護師は、それだけで背負う義務が大きくなる、といったことが書かれていたのです。ナース10年目の梨恵さんは、そのキャリアに見合う有能なナースを目指して、あちこちの研修に参加し、院内のいくつかの検討委員をし、看護研究にも取り組んでいます。勉強を積むにつれ、問題点や危険性も見えてきます。同じ10年目でも、ほとんど勉強せず危険性などに無頓着な同僚が事故を起こした場合のほうが求められる責任が小さいという解釈ができます。梨恵さんは、有能なナースを目指してがんばってきたことにむなしさを感じ、そして落ち込みました。
 洗濯を繰り返し「もういいかな」と思い、目を閉じるのですが、なぜかまったくBさんのピースサインの場面が浮かんでこないため、ここ数日、梨恵さんは困惑しているのです。
 <どうしてなの!? これじゃ、落ち込みから脱け出せないじゃない>
 そう胸の内でつぶやいた梨恵さんは、起き出して、押し入れのドアを開けます。看護学生時代の実習の記録物の中のBさんの分を見れば、また、目蓋に彼がピースサインをする姿が浮かぶのではないかと考えたのです。
 Bさんの記録物が出てきました。
 なつかしくて、しばらくそれを読んだあと、今度こそはと梨恵さんは目を閉じます。しかし、Bさんのピースサインの場面は浮かんできません。一旦、ベッドに戻って横になって目を閉じても、浮かんできません。
 起き上がり、肩を落として、梨恵さんは、押し入れに戻り記録物を片付けはじめると、ぽろりとなにかが落ちて、それが床でころがります。
 みるとそれは、ピースマークのプリントがされた缶バッチでした。そして、彼女は思い出したのです。Bさんが、受け持ち最後の日に「がんばり過ぎないでね」といって、この缶バッチをくれたことをです。当分は、落ち込みから抜け出す仕上げがこの缶バッチとなりそうだと、梨恵さんは思ったそうです。

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