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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第98回 タケオ君の決心 2012/8
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 日曜日。午前十時。アパートの一室。
 中学二年生のタケオ君が、母親のブラジャーを慣れた手つきで干しています。額のニキビを隠すためなのか、前髪がかなり伸びています。
 彼の母親の幸子さんは看護師で、長らく三交代勤務をしています。
タケオ君が小学五年生になったとき、幸子さんといくつかの約束をしました。幸子さんが深夜勤務明けの日にはタケオ君が洗濯をするというのもそのうちの一つです。タケオ君としては、<約束というよりも、母さんが一方的に宣言したことに従ってあげている感じなんだけど>と思っています。

 タケオ君は、今日の午後、クラスメイトのAとB二つのグループから同時に遊びの誘いを受けており、どちらに行くか迷っています。Aは、どちらかというと成績がよい人が多いグループで、Bは少し不良な雰囲気のあるグループです。これまで彼は、Aグループのみんなと行動を共にしていましたが、趣味の昆虫関連の本を読んだり、インターネットで情報をとることに熱中するようになり、このところ、グループと距離をとり一人で行動することが多くなりました。
 すると、以前からAグループと相性のよくないBグループがタケオ君を仲間に引き入れようとし、それを知ったAグループはタケオ君に、「Bに入ったら裏切りだ。こっちに戻れ」と言ってきたのでした。
 タケオ君は、実はA、Bどちらのグループに入るのも面倒だと考えています。どちらでも、一緒にいてだらだらと話したり、何かに付き合ったりしなければなりません。タケオ君は、一人で昆虫のことに没頭したいのです。
 しかし、どちらにしてもグループにも入らない無所属の状態は、両グループから無視や嫌がらせなどをされ、最も煩わしい事態になるだろうとタケオ君は踏んでいるのです。実際、少し前にBグループを抜けてAにも入らず無所属の道を選んだクラスメイトが、両グループにじわじわと嫌がらせを受けたのです。それでタケオ君は、どちらかに入るのが現実的な判断だと考え、どちらにするか迷っているのです。
 もうすぐ深夜勤務明けの幸子さんが帰ってきます。タケオ君は時計をちらりと見たあと、窓を開け放ち、ハンディ掃除機を出してきて、室内の目立つ埃をさっと吸い取ります。幸子さんのために掃除しているのですが、それを悟られるのは恥ずかしいため、完璧には掃除しません。
 <そうだ、どうせボクはどっちだっていいんだから、今日の母さんの疲れ具合がA段階ならAグループ、B段階ならBグループにしよう>
 幸子さんと二人暮しのタケオ君は、仕事から帰ってきた母親の様子を観察して、胸の内で疲れ具合に段階をつけることが多いのです。Aは「少し疲れている」Bは「疲れている」Cは「かなり疲れている」の三段階です。アパート前の狭い駐車場に駐車するときのエンジン音、玄関ドアの鍵をあける音、ドアを閉める音、そのあとの足音、表情、髪の乱れ具合、「ただいま」の声のトーン、スーパーで買ってきた食材の内容、冷蔵庫のドアを開けている時間などなどが、疲れ具合によって違いがあり、タケオ君は「今日は、Aだな」などと胸の内でジャッジするのです。
 <いまのところ、ボクの運命の大部分を左右している人間は母さんなんだから、ここも母さんに決めてもらおう>
 タケオ君が小学五年生のときに両親が離婚しました。そのとき以来タケオ君は、幸子さんの意思や経済力や健康状態などによって、当面は自分の身の振り方が決まっていくのだと考えるようになったのです。
 と、駐車場に幸子さんの車が入ってきます。それを窓ごしに確認したタケオ君は、耳を澄まします。パタリと力なくドアが閉まる音。どの疲れの段階なのかわからず、タケオ君は首をかしげます。なんとなく心配になり玄関を開けて迎えてあげたい気持ちになりますが、そんなことは恥ずかしくてできません。
 玄関の鍵を開ける音、バタンとドアが閉まる音がしましたが、その後の音がしません。さすがに気になってタケオ君が玄関に行ってみると、荷物を両手にぶらさげたまま、焦点が定まらないような目をして幸子さんが立っています。
 「なんで、立ってんの?」とタケオ君。
 「あっ、タケ。あのさ、帰ってくる途中にね、車から、空見えて、すごく、すごく黒い雲が浮かんでたのよ」
 と言い終えると、幸子さんはその場でへたりこみ、いきなりわーわー泣きだします。
 タケオ君は、その様子を前にして、全身から力が抜けてその場でへたりこみそうな感覚になりますが、<あっ、これが、女性が泣き崩れるというやつか>とドライに心の中でつぶやき、なんとか持ち直します。
 「タケ、ごめんね、あー、あー、私の仕事はね、感情労働というやつでね、きっと、何年もたまってたものがね、なぜか、車から見えたあの黒い雲に堰を切られたんだね、ごめん、ごめんね、父さんと離婚したとき、母さんは絶対に泣かないって約束したのにね、あー、あー、ごめん」
 予想だにしなかった幸子さんの様子に、タケオ君はしばらく絶句してしまいました。泣き声をあげるたびに動く幸子さんの肩がとても華奢であることや、あーあーと泣く声が子どものようであることにとても驚きました。
 そして彼は、やっと声を発したのです。
 「母さんはボクに泣かない約束なんかしてないよ。母さんが一方的に宣言しただけだよ。だから母さんは約束破ってないよ」
 ぼそぼそとそう言うと、ぷいっと踵を返して、台所に行き、牛乳をごくごく飲みながら「強くなる。強くなって母さんを守る」と決心しました。
 そして、どちらのグループの集まりにも行かなかったのだそうです。

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