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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第99回 Take it easy 2012/9
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 昼。白衣姿の武井美貴さんが、足早にA病院内の売店前を通り過ぎようとしています。昼食を済ませた職員食堂から一刻も早く職場に戻ろうとしているのです。
彼女は、この春に看護師になり、A病院に就職しました。まだ昼休み休憩の時間が残っているので、あわてて職場に戻らなくてもいいのですが、新人としての緊張感に生真面目な性分が加わり、つい急いでしまうのです。
 そんな武井さんの足が止まります。売店内を横目でちらりと見た瞬間、思いがけずある日のシーンが目の前によみがえったのです。いまから一年前の看護学生のときに接した真島さんという女性(82歳)と会話した場面です。
 あの日、武井さんは、病室からリハビリに行く真島さんに急きょ付き添うことになりました。受け持ちの患者さんは別の方でしたが、実習の不足分を補う必要があり、見学させていただくことになったのです。武井さんは、真島さんに車椅子に乗っていただき、それを押してリハビリ室に向かいました。
 そして、リハビリを終えて戻る途中に、真島さんの希望で売店に寄ることになったのでした。
 デザートコーナーで品定めをしていた真島さんは、くるりと振り返り、武井さんに言いました。
 「心配しないで。私は、甘いものを、無理矢理学生さんの手に持たせたりしないから」
 「はっ……。はい」
 実は、武井さんは、真島さんが売店に寄りたいと言ったときから、内心、それが心配になっていました。患者さんから、飲食物をはじめとして物をいただいてはいけないことになっているのですが、前の受け持ち患者さんが渡そうとしたチョコレートを武井さんが断ったところ、その場がきまずい雰囲気になってしまったのです。もし似たような事態になってしまったらどうしよう、と。
 真島さんが、武井さんの顔をのぞき込み、ニコリとしてから言いました。
 「あっ、ほっとした顔してる。アハハ」
 真島さんは、絵画塾の先生を長らく続けてきたということでした。半身に軽いマヒがあるものの、居住まいはしゃきっとしており、頭にはかつらをつけた上に鮮やかな色柄のスカーフを巻き、リハビリ用の衣服もおしゃれへの気遣いが感じられました。リハビリ室への行き帰りだけのために、赤い縁のめがねをかけていました。
 笑い終わると真島さんは、振り向かず、商品を物色しながら話し始めました。
「あなたは、受け持ちでついている学生さんじゃないし、今だけ接するわけよね。そんな一時的な関係のあなたに、聞いてほしいことがあるのよ。商品をいろいろ見ながら話したいから、できるだけ、顔を近づけて。黙って、聞くだけ聞いてほしいの。いい? こんなお願い」
 「は、はい」
 以下、そのときの真島さんの話です。

 20年前に亡くなった夫は、ふわふわと夢を追っていてばかりの人で、私も収入が多くなかったから、我が家の家計は不安定だったのね。それでも、なんとか二人の娘を育てあげ、嫁に出したら、あまりお金もかからなくなって、夫婦二人でのんきに暮らしていたの。
 そしたら夫が、次第に物忘れがひどくなってきて、ある日、変な行動をとったの。居間で、夫がね、私の遊び用の「ぬりえ」を一生懸命、色鉛筆で塗っていたのよ。ぬりえなんてするような人じゃないから、びっくりしちゃった。それと同じ日にね、私の鏡台の前に座って、私のクリームをね、顔に塗ってたの。<あっ、これはボケてきたのかな>と思って、夫はまだ70過ぎだったけれど早くボケる人はいるから、いまでいう認知症になってしまったのだと。
 その翌日、夫はすっと逝ってしまったの。
 でね、夫の七回忌の準備をしていて、はたと気付いたの。あれはボケたゆえの行動ではなかったんだってことに。娘たちは、私ととても仲が良くて、あの「ぬりえ」は長女が、あのクリームは次女が、里帰りしたときのお土産だったの。私がぬりえにはまっていたのを知って買ってきてくれたのね。次女は、私の乾燥ぎみの肌を気遣ってクリームを買ってきてくれたの。
 夫はね、寂しくて、それとちょっとヤキモチもあって、ああいうことしたんだなって気付いたの。娘たちは、里帰りのときに、夫にお土産に何がいいか尋ねるんだけど、夫はいつも「何もいらない」と応えるから、娘たちは靴下とか、いわば適当なものを持ってきたのね。一方、私には、ほしいもの、喜ぶものを察して買ってきてくれてたの。あきらかに娘たちは私贔屓だったのね。父・娘の関係も悪くはなかったんだけど。
 で、そのことを思いだすと、夫に言いたくなるの。「あなた、亡くなる前にボケたのだと決め付けてしまってごめんね。でも、娘たちが私についてしまった原因はあなたの父親業に足りない面がおおいにあったからなんだからね!」って。
 私はね、こういう思いを身近な人には絶対に話したくないたちなのね。いわば行きずりのあなたに話したくなったってわけ。聞いてくれてありがとね。

 売店で買い物を終えて個室病室に到着すると、真島さんが「あなた、お口をちょっと開けて」というので、武井さんがそのとおりにすると、そこに真島さんはすばやく何かをすっと彼女の口に入れました。売店で買ったこぶりの大福でした。「さっ、もぐもぐして、そして飲み込む」と真島さん。驚きながらも、武井さんは言うとおりにしました。
 「Take it easy! お互いに!」
 武井さんが病室を離れるとき、真島さんはそう言って手を振りました。
 そのときのことを、武井さんは売店前で急に思い出したのです。そして、Take it easy! とつぶやいてみると、入職して以来つづいていた動悸がはじめて止んだような感覚になり、武井さんは売店に寄って雑誌でも覗いて息抜きをしようと考えたのでした。

 以来、武井さんは緊張を緩和したいときに、Take it easy!とつぶやいているそうです。お世話になった先生方や、濃厚に接した受け持ち患者さんらとのやりとりがいくつもあるけれど、いまは真島さんの言葉に助けられていることを不思議に思いながら。

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