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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第163回 あんちょこ 2018/1
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 某病院の本館4階病棟(以下、本4)のフロアは、東西にのびた長方形です。
 その中心近くに配置された師長室のドアの前に、本4の看護師長の武由紀子さん(45歳)が、困惑した様子で立っています。首を傾げながら自身の胸ポケットの中をさぐります。
 13時からスタッフとの面接があり、それまで7分を使い、師長室に入って和菓子とお茶でひと息入れようと考えていたのですが、大切な「あんちょこ」がなくなっていることに気づいたのです。
 あんちょこと言っても虎の巻として活用しているのではなく、彼女にとってお守りのようなA7サイズのメモ帳です。プラスチックの赤い表紙がついています。ナースになって以来、24年間、ユニフォームの胸ポケットに必ず入れているものです。絶対に落としたりしないように、メモ帳の背のらせんの金属部分に紐をつけて胸ポケットの内側に止めていました。確認してみると、その止めていたゴム製の紐が切れてしまったようです。
<早く見つけなきゃ。>
 彼女は思わず心の中で叫びます。見られたらとても恥ずかしい、と思う箇所が満載だからです。
 たとえば、実に基礎的なバイタルサインの異常の目安や呼吸の種類や心音の分類などなどをメモした部分。病院に入職したころに参考にしていたページです。その後必要なくなりましたが、初心を忘れないためにそのままにしてあります。メモ帳の最後のページに記名してありますから、拾ったのがスタッフだとしたら、<師長、まさか、まだ、こんなデータ見てるの?>と言われるのではないか。
 また、新人時代に、大みそかから元旦にかけて夜勤をした際に、外泊せずに病室で過ごした男性患者に手渡された年賀状も。縮小コピーをしてメモ帳にはさんでいるそれには「ぼくの天使さん、ありがとう」と書いてあり、<天使さん、と言われてよほどうれしかったんだね>などと思われるかもしれません。
 それと、好きな花言葉のメモ。日頃、シャープかつワイルドな雰囲気を出そうと心掛けているため、<師長って実は乙女なのね。スズランとか、かすみ草とかマーガレットとか!>とスタッフに笑われるのではないか。
 武さんはみなの反応を想像してあわてて首を左右に振り、出勤してからいままでの自分の行動をこまかに思い出します。そして「あっ」と声を漏らして顔をあげ、 廊下の約40m先のフロアの東端のところに目をこらします。すると、武さんの赤いあんちょこが落ちているのがとても小さく見えます。今朝、あの場所で、転倒しそうになった患者さんをとっさに抱きかかえたのでした。どうやらそのときに落としたようです。
<あった!>
 ほんとうは走って拾いに行きたいのですが、今朝、日勤スタッフがずらり並んだところで、「廊下も病室も走ってはいけない」と注意したばかりですから、それはできません。なので競歩のような早歩きをはじめます。
<急いで拾ってくれば5分は休憩できるから、お茶と和菓子にありつけるかも>
 と、歩みを進めている少し先の廊下に水がこぼれているではありませんか。患者さんの転倒の原因になる実に危険な状態です。あいにく周囲に清掃の人もほかのスタッフもいません。彼女はすぐさま汚物処理室へモップを取りに行き、水分を拭きます。作業に約一分使いました。
 武さんはふたたびあんちょこを拾うべく速足で廊下を歩きはじめます。
 ふと、小山田部長の存在が頭をよぎり胸のうちで舌打ちします。部長はちょうどいまごろに、非常階段をおりてきて、あんちょこが落ちている地点を通過して、ナースステーションにやってくることが多いのです。
<部長にだけは拾われたくない>
 内科部長の小山田医師と武さんは、意見がなにかとぶつかることが多い関係です。
そして、最近の部長は、「看護師長とあろうものが……」
と武さんの行動、言動を非難することが多いのです。もし彼があんちょこを拾ったなら、なにを言われるかわかりません。武さんが新人ナースだったころに、一度落としてしまい、そのときに小山田部長に拾ってもらったことがあり、なにかしら嫌味を言われたと武さんは記憶しています。
 武さんが歩を進めていると今度は、個室病室から男性患者の島田さんが出てきて、武さんの腕をつかみます。彼は家族に関する悩みを聞いてほしいと師長にメモをよこしていました。今は話を聞けないとしても、時間をとる約束をする必要があります。
 ここで武さんはお茶と和菓子は断念します。落し物を拾ってから病室をたずねますと島田さんと約束して、あんちょこを拾うために進みます。
 と、今度は通りがかった2床室からアラーム音が聞こえだします。早く落し物を拾ってしまいたいものの、無視するわけにはいきません。時計は13時をまわっています。病室に入って事態に対応し、ナースコールで、13時からの面接を少し待ってほしいとスタッフに連絡します。
 
そして武さんは、やっとあんちょこまであと5mの地点まできました。<よかった>と思った瞬間、いちばん現れてほしくない人、つまり小山田部長が非常階段から現れ、落ちているあんちょこに気づいてすっと拾い上げてしまいます。
武さんは突進し、彼の手からあんちょこをもぎ取ります。
小山田部長は、武さんがぶつかってきたためよろけて尻もちをついてしまいます。
「あっ すみません」
「あっ、いや」
 武さんが仕方なくといったふうに差し出した手を借りて小山田部長は立ち上がり、武さんが素早くあんちょこをしまった胸ポケットに目をやりながら、めずらしく微笑んで、「それ、もしかして、君が新人のころから持ってたやつじゃない? だよね、その赤い表紙、裏表紙のほうをさ、窓の光にかざしてみてよ」
 武さんが言われた通りやってみます。
「赤い表紙を見て思い出したよ。それを拾ったとき、赤いマジックで言葉を書いた気がするんだ。君が気づくか気づかないか、どっちだろうと思いながらね。気づかないのが普通だね。若かったなあ、あのころ、お互いに」
 小山田部長が照れたように小さく笑いました。
 武さんが窓にかざしてよく見ると「がんばろう 小山田」と書かれていました。武さんは、このメモ帳を小山田医師があんちょこと呼んだためにそう呼ぶようになったことを思い出しました。

 犬猿の仲だった武さんと小山田部長が、その後、あまりいがみ合わなくなった理由についてスタッフ間では謎となっているそうです。

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