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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第167回 運命の人? 2018/5
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 正午近くの某病棟。
 看護師の田部ひかりさん(29歳)が、シャンプー台で黒羽根忠志さん(82歳)の洗髪中です。本日の午後に退院する彼が強く希望し、急遽実施することになったのです。午後イチの希望でしたが、シャンプー台の空きがなく昼前に、担当ナースではなくフリー業務の役回りだった田部さんが実施することになりました。黒羽根さんは昨夜、病院側の都合で別の病棟からこちらに移ってきました。
ストレッチャーに寝たままの状態での洗髪。顔をタオルで覆った黒羽根さんの呼吸が眠ったと思われる調子に変化し、田部さんは声をかけずに進めているところです。
 田部さんは手を動かしながら自身の不安な一件を思い浮かべてしまい、<ケアの最中なんだから、そんなこと考えちゃだめ>とあわてて打ち消します。しかし、容態の変化の心配がほとんどない黒羽根さんがすーすーと寝息をたてはじめると、さきほど打ち消したことがまた頭に浮かんできてしまいます。
彼女は恋に悩んでいるのです。
相手は同じ病院に勤務している放射線技師の新谷恭平さん(27歳)。
新谷さんとはS書店で出会いました。昔ながらの町の本屋さんです。入口には子供向けの本が販促グッズなどとともに陳列され、二階の奥に文庫本コーナーがあり、そこで同時に同じ文庫本に手を出したことで知り合いました。
 田部さんにとって、知り合った人がたまたま同じ病院の職員だった、という点が重要です。
看護師になり、はじめて勤務したのは都内のベッド数の多い総合病院でした。そこで出会った医師と、男女交際というものをはじめて経験しました。22歳でした。交際して半年たったころ、なぜか相手の医師がこれからは後輩の医師と交際しろと言い出すと同時に交際が不倫であることがわかりました。相手には離れて住む妻子がいたのです。そして相手はまもなく別の病院に転勤しました。
 不倫だったことや後輩医師をあてがうようなことをされたことがショックでしたが、それ以上に傷ついたのは、事態発覚後の同僚たちの冷淡な態度でした。なかには「遊ばれて捨てられることがなぜわからなかったの?」とか「見る目がなさ過ぎて、看護の能力も疑う」といった言葉を田部さんに直接発した人もいました。
 労わってくれた人たちもたくさんいましたが、自分の未熟さが院内じゅうに知れ渡ってしまった気がして恥ずかしさでいたたまれず、田部さんは退職しました。
 そして東京から某地方都市へと引っ越し、現在の病院に就職したのです。勤務してもう七年目。
 現在の病院に入職する際に彼女が自身に誓ったことは、職場の人とは絶対に交際しないということです。そして仕事に打ち込み、院内どころか、ほかの誰とも付き合わずに暮らしてきました。プライベートでは読書や映画をたのしみ、たまに女友達と食事したりして、お一人様で生きてゆく。恋愛なんかしなくていい。そんなふうに考えるようになっていました。
 ところがです。半年前からS書店で新谷さんに合うようになり、いつしか好きになっていることに気づきました。
 彼については名前と年齢と職種と職場を知っているだけ。S書店で会うのも約束ではなく偶然会う形です。お互い、いつごろにS書店にやってくるかだいたいの見当がついているのです。住所も電話番号もメールアドレスも知りません。文庫本コーナーで会ったなら、5分から15分くらい本や映画のことなどを話して「じゃあ」と言いあってわかれます。新谷さんも田部さんが同じ病院の職員だと知っています。
田部さんは前の病院でのことが心の傷になっているので、新谷さんが同じ病院の職員とわかったときから強い抑制が働き、恋は進展しません。新谷さんが指輪をしていないからといって独身だと決めることはできないと彼女は考えています。前に交際した医師も指輪はしていませんでした。
<この人が運命の人ならやがてそのように動いていくはず>
 そう思いながら彼女は、S書店で彼に会うことで心が安定していました。前の病院を退職する際に、親身になって話を聞いてくれていた先輩が、彼女の背中に手を当てて、
「大丈夫。すべての出来事は運命の人に出会うまでのプロセスなんだから。心配しなくていいんだから」
と言ってくれたことで、まだ見ぬ運命の人を意識するようになりました。
 五日前に、彼女の心中は穏やかではなくなりました。S書店が突然、予告なく閉店してしまったのです。職場で新谷さんに偶然会ったことはこれまでにありませんが、もし今後あったとしても田部さんは知らないふりをすると決めています。また、職場の誰かに新谷さんの連絡先を聞いたりすることもしません。それがきっかけで噂にでもなったりしたら嫌だからです。
<運命の人ではなかったのかも>
 今日にいたって彼女は、そう自分に言い聞かせるようになってしまいました。しかし、そう思うのはとても苦しくて寂しくて……。
<あのことだって、彼が運命の人ではないことを私が受けいれるためのひとつのプロセスだったのかも>
 田部さんの病棟の看護方式はPNS(パートナーシップ)です。田部さんは4歳年上の男性看護師と組んでおり、とてもいい関係です。その仲のよい様子を、職員ではなく患者さんが恋愛関係と勘違いし小さな噂が先月たったのです。噂の出元と思しき患者さんらにPNSの説明をしっかりと行うことで、騒ぎはしずまりましたが、たとえこのような事情の噂だとわかった上で聞いたとしても、新谷さんの耳に入ったなら、どんなふうに感じるのだろう、と田部さんの胸のうちはざわついたのでした。
 仲の良い同僚にも、新谷さんのことは一切話していません。前の病院で騒ぎになった際、仲の良い同期の同僚までもが院内の人たちから白い目で見られて迷惑をかけたためです。
<ほんとうに運命の人ではないのだろうか。このまま会えなくなったら、それを私は受け入れられるのだろうか>
 洗髪の手を動かしながらちらりとこの件を考えてしまい、彼女は自分に駄目出しをします。そしてケアに集中するために、ふう、と息を吐きます。息に、声未満の音がともなってしまいました。
 黒羽根さんがうたた寝から目を覚ましたらしいことに気づいた彼女は、
「あっ、ごめんなさい!」
「いや。謝らなくてもいいですよ。なんか、いまのあなたのと同じようなため息、最近聞いたなあ」
と黒羽根さんがタオルの下の口を動かして言って、
「あっ、そうだ、いま何時?」
「12時3分です」
「孫がね、12時過ぎに病室をたずねてくる予定だったんだ。ここだってわかるかなあ」
「はい。ナースステーションでたずねてくだされば、スタッフはここだと伝えるとおもいます」
「ならよかった。あっ、そうだそうだ、その、やってくる孫がね、おとといだったかな、仕事終わりに病室に顔出して、同じようなため息をついたんだった」
「そうですか、洗い足りないところはないですか?」
「はい」
 そこへ足音が近づいてきます。田部さんが顔をあげると、なんと新谷さんがそこに立っていたのでした。黒羽根さんの孫とは彼のことだったのです。

 それから五年。
 もしもあの日黒羽根さんが退院前に病室を移動してこなかったなら、本当は検査につく予定だった田部さんがフリー業務になっていなかったら、黒羽根さんのシャンプーを正午前に行わなかったら、前の業務が押すことがなく黒羽根さんの洗髪が正午前に終わっていたなら、どうなっていたのだろう……と、いまは苗字が新谷になっている田部さんは時々考えるそうです。

 

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