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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第154回 ロミオとジュリエット 2017/4
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 夕方。
 療養病床の西5階病棟の休憩室で、看護師の大森さんと小中さんが休憩しています。いつになく忙しかった一日でした。
「明日の朝は、どうかな、ジュリエット」
 コーヒーの一口目を啜ると大森さんがいいました。
「どうだろうね、ロミオと並んでほしいよね」
 ロミオとジュリエットとは、西5階で使われている点滴スタンドの愛称です。
 この点滴スタンドは、車輪が五つついているために安定性に優れており、押して歩くときに持ちやすい取っ手と小さな袋をかけることができるフックがついています。また、吊り下げた輸液バックやボトルが揺れにくい設計です。西5階にはふた月前に導入されました。
 取っ手や足元部分などの各所がブルーのものと、ピンクのものがひとつずつ。この二台が病棟に届き、廊下の窪んだ一角がそれらの居場所となりました。新品で高価なこの二台は、使い古されたシンプルな点滴スタンドが何台も置かれている場所とは違い、特別に目立つところに置かれました。
 二台が置かれた初日のことです。大森さんはシャワー浴が終わった患者の松島豊子さん(90歳)を、彼女の個室病室まで車椅子でお連れしました。
シャワー後の松島さんの髪をドライヤーで乾かそうとする大森さんに、松島さんは言いました。
「廊下に、新しい、あれ、点滴の台かしら、来てたわね」
「はい。点滴スタンドです」
「一対のブルーとピンクだったでしょ。なんか、恋人同士の男女が並んで立っているみたいだったわ」
「わあ、いいですねえ、そういう見立て。そんなふうに思える松島さん、素敵です」
 すると松島さんは、指で髪を耳にかけながらうれしそうに笑って、
「でも、みんなの治療に使われるのだろうから、いつもあの場所に一緒にいられるわけじゃないんでしょうね」
 高校教師だったという松島さんは、一言一言しっかり声が出ています。相手に聞こえるような発声を意識しているそうです。彼女の体調の良しあしは声の強弱に如実にあらわれます。
「ですね。二台とも出払ったり、片方だけ残っていたり、ブルーとピンクが入れ違いになったり。恋人に見立てた場合、すれ違いみたいなことも多いかもしれません」
「そう。そうよね」
 といって松島さんは少し寂しそうな表情をして窓の外に目を向け、
「ロミオとジルエットみたい。ブルーがロミオ、ピンクがジルエットなのよ」
 それ以来、モーニングケアの際に松島さんはスタッフに、
「今日はどう?」
と、たずねるようになりました。今日は、ロミオとジュリエットはあの場所で一緒に並んでいるかどうか、という問いです。
 ブルーとピンクの点滴スタンドは、導入された翌日から、かならず一方がどちらかで使われており、あるいは二台とも使われ、二台が並ぶタイミングがなかなかないのでした。
 コーヒーの二口目を味わった大森さんは、
「むずかしいかなあ。ジュリエット、415の患者さんたちにつかまってるからねえ」
 415号室は女性患者の四人病室です。機能的に優れているだけではなく、ピンク色の意匠が施されているジュリエットは、415号室の患者間で大人気で、取り合いになるほどなのです。先日は明け方にひと騒動ありました。
 415号室の磯山さんが、自分のベッドサイドに置いておきたいあまりに、点滴が終わって必要がなくなったのに、自分の衣類を入れた大きなボストンバッグとジュリエットを、輪っか式の自転車用の鍵でつないでしまったのです。そしてさらに、その鍵を開ける暗証番号の四ケタを忘れたと言い張ったのです。
 すると、磯山さんとあまり仲の良くない向かいのベッドの富島さんが、そのボストンバックの中の衣類を取り出して、バックを引きずって自分のベッドサイドにジュリエットを運んできたのでした。
「磯山さんも富島さんも、よくそんなエネルギーがあったものだよね、不思議」
 大森さんがいいました。
「ほんと。いま、下山さんのところで使ってるんでしょ」
「そうなの。だから、磯山さんも冨島さんも、じとーっと、下山さんのほうのベッドに視線を送ってるみたい」
 下山さんも415号室の患者さんです。
「まあ、点滴スタンドは医療用具で必要に応じて使うのだから、あの場所に二台並ばないのは当然ともいえるんだけどさ。でも、そろそろ並んでほしいかな」
 小中さんが言いました。
「そうなの。松島さん、普段は寡黙で、あまり自分のことも話したがらないじゃない」
「我慢づよくて、訴えが少ないしね。で、こと、ロミオとジュリエットのことなら、あふれ出すようにお話するでしょ」
「だから看護上も大事な話題だよね」
「そうだね。昨日ね、松島さん、弱弱しい声で、ロミオとジュリエットだなんて言った私が悪かったんだ、あれはすれ違いの悲劇なんだから、っておっしゃるの」
「私にも、いま思えば、お雛様の男雛と女雛と言えばよかったんだわ、なんて」
 松島さんのご家族の話では、彼女の幼馴染だった男性が亡くなったという報せがあり、それを伝えてから元気が無くなったと言います。
「松島さんの娘さんによると、もしかして、その男性が初恋の人だったのかも、って」
「思い出があるのかもねえ。ロミオとジュリエットが並ぶことが、松島さんにとって、なにか意味があるのかもしれないねえ」
「かといって、二台そろってないのに、そろってましたよって噓をつくのも、あまりしたくないしね。それと、松島さんに二台そろっていると言いたいがために、調整してくれるようにスタッフに呼びかけるのも、違うと思うしね」
「そうだね。自然にそうなっているのを松島さんに伝える、っていうのが大事で。松島さんだって、自然に並んでいるというのが大事なわけだろうしね。いまの時点でロミオはあの場所に戻ってるから、下山さんが使い終わったあとに誰も使わなければ、明朝は並ぶかも」
「どうかなあ、そうなるといいね」

 翌朝――。
 更衣室で一緒になった大森さんと小中さんは、病棟につくやいなや、ロミオとジュリエットの所定の置き場所を確認しに行きます。
「あっ、並んでる!」
「やった」
 二人は顔を見合わせて頷きます。
 しかし、朝の引継ぎをしているうちにどこかで必要となり、どちらかが、あるいは両方が使われる可能性も低くありません。
 モーニングケアの時間となり、松島さんの病室へ行く前に、大森さんは二台の置き場所へそろりそろりと見にゆきます。
 すると、ブルー、つまりロミオがありません。
 大森さんは肩を落とします。
 仕方ない――。
 気を取り直して松島さんの病室へと歩きだします。
 そのときです。背後に気配を感じて大森さんがふりむくと、あるスタッフがロミオを戻しにきたところだったのです。二台がそろいました。
 その様子を目に焼き付けて大森さんは足早に松島さんの病室にゆきます。
「な、並んでましたよ、いま、ロミオとジュリエットが! そろっていました!」
「ほんと?」
「ええ、ほんとです」
「うわあ、うれしい」
 久しぶりに弱弱しくない松島さんの声を聞くことができたそうです。

 実は、大森さんと小中さんは、西5階病棟に対していろいろと思うことがあり、急性期への異動希望を出そうと決めていたのですが、この一件があって、もう少しここでやってみようと話し合ったとのことです。

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