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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第156回 相性が悪い? 2017/6
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 午後。
 いまにも降りだしそうな曇天のもと、訪問看護ステーション・渚の看護師の板倉より子さん(26歳)は軽自動車を走らせています。天気と同様に彼女の表情も曇っています。
 信号待ちで車をとめると彼女は、
<やっぱり、相性が悪い、で片づけてはいけないよね>
と心の中でつぶやきます。
 実は彼女は、これから訪問する石神総一さん(72歳)との関係がなんとなくぎくしゃくしている感触なのです。
 板倉さんが問うことに対して彼は、
「はい」「いいえ」「少し」「そうです」「効いているみたいです」「眠れました」「大丈夫です」
などとぶっきらぼうに答えて、目を閉じてしまうのです。ただのぶっきらぼうではない、と板倉さんは感じています。彼は奥様に対しても同じようにぶっきらぼうな言葉づかいであることも、関係性の違いに即していない気がしています。<私への不満や腹が立つことが何かあるのだろうか>と考えて板倉さんは一度彼にたずねました。
「気のせいかもしれませんが、もし、失礼な言動や態度などが私にありましたらおっしゃってください」
「ないです」
 石神さんは、彼女を一瞥したあとそう答えて目を閉じてしまいました。
 周囲の人たちは何ら気にならないけれど、やりとりしている当人たちはなにかしっくりいっていない。微妙なニュアンスでそう感じることがあるものです。それが小さな気がかりとなり、日々の仕事にプラスにはなりません。それで板倉さんは昨日、あわただしく帰り支度をしている職場の先輩ナースに5分ほど時間をもらって話してみました。
 すると次のようなアドバイスがありました。
「うーん、トラブルが起きているわけではないようね。すべての利用者さんやご家族と打ち解けたいい関係にはなかなかなれないわよ。訪問看護師とはあまり話したくないという方だって中にはいらっしゃるしね。それと、看護だけじゃなくケアや医療で訪問してくる人全般を警戒していて必要事項のやりとりだけ述べる、みたいな構えの方もいらっしゃるし。
 あなた、もしかして利用者の方との距離感が少し近いんじゃない? ちゃんと距離をとっていれば割り切って接することができて、たとえ苦手な相手であっても苦痛な訪問ではなくなるから。
 まあ、人と人だから相性みたいなことも、あるからね」
 確かに私は距離の取り方が下手かもしれない。でも、相性の良しあしのせいにはしたくない。板倉さんはそう考えました。
 板倉さんは、訪問看護ステーション・渚に就職して2年目です。その前は、総合病院の内科系の病棟に3年間勤務していました。
 彼女は車を発進させながら、前の職場の先輩ナース、磯貝さんの言葉を思い出します。
 磯貝さんは後輩を厳しく指導する人で有名でした。
 ある準夜勤の日、磯貝さんともう一人のナースと板倉さんが勤務メンバーでした。板倉さんのキャリアはナースになって2年目を迎えたばかりでした。
 その準夜勤が終わり、車通勤のためゆっくりできる磯貝さんと板倉さんだけがナース休憩室に残ってお茶を飲んでいました。
 その際に磯貝さんはしずかな口調で板倉さんに言ったのです。
「相性が悪い、って片づけてしまわないでね」
「は?」
「今夜、消灯のあとに、私、あなたをものすごい剣幕で𠮟ったでしょ。ああいうふうに言われてびくりとして、萎縮して、嫌だから、ああ、この人と私は相性が悪いんだ、合わないんだ、って思うことにすると、遮断するような意識が働いて、私が荒げている声も、大きな音がしてるなあ、くらいにしか思わず、メンタル、ぜんぜん平気でいられるかもしれない。でも、そしたら、指摘されている内容がインプットされないまま、つまり学習しないままになってしまう。それに、関係が深まらない。それはもったいないと思うの。
 もちろん、人間関係で相性が悪いってこともあると思う。でも、すぐにそう考えて相手を遮断しないで、私のことなら、嫌いだ、とか、いやな奴だなと思って、でも相性悪いって遮断しないで、何を言ってるかはちゃんと聞いてほしいわけなの。印象に残るように一生懸命語気を荒げてるの」
 どうして磯貝さんに叱られたあのときに「この人と相性が悪い」と思って心を閉じたことがわかったのだろう、と板倉さんは驚きました。そして、意識的に声を荒げて指導していると聞き、とても素直な気持ちになり言いました。
「実は私、今磯貝さんがおっしゃったとおりのことをしていました。せっかく声を荒げていただいたのに、もったいないことをしました。どうして座位がだめだったのか、大事なくだりから実は遮断していました」
「じゃ、えーと、その大事なところから、気持ち作っていま、リピートしようか?」
 板倉さんが目を丸くしながら頷くと、磯貝さんは下を向いて集中するような姿勢になったあと、少し抑え気味に声を荒げたのです。CVカテーテルを抜去するときに仰臥位ではなく座位だと上半身の静脈圧が下がり、CVカテーテルから入る空気を引き込む力が増し、静脈空気塞栓症を引き起こすおそれがあることなどをくわしく。
 板倉さんは病院を退職するまでに、磯貝さんに幾度厳しく𠮟られたことか。振り返ってみると、磯貝さんに叱られたことを彼女は確実に学習できた実感を持っているのです。そして「相性が悪い、と片づけてしまわない」が彼女の座右の銘となりました。
 
 板倉さんは、石神さんとの関係がぎくしゃくしている感触を「相性が悪い」と片づけず、なにか理由があるのではと考えつつ、丁寧に接することを心がけようと、改めて決めて実行しました。すると、その後石神さんのぶっきらぼうの訳が一つの誤解によるものであったことがわかったのです。
 録音した自分の声をはじめて聴いてその声色になぜか深く落胆していた石神さんは、そのあとに訪問でやってきた板倉さんの言葉を「石神さんの声は好きではない」と言われたと聞き間違え、むっとしていたのだそうです。

 板倉さんのすすめで受診した耳鼻科で、石神さんは聴力の低下が認められ、今後のことを耳鼻科医と相談中とのことです。

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