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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第161回 やすらぎの森 2017/11
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 火曜日。デイサービスやすらぎの森(以下、やすらぎ)の壁時計の針が午前9時をまわったところです。
 利用者たちが続々と到着し、うがいを済ませ、大テーブルのそれぞれの席についています。気温低下が進み、ダウンジャケットを羽織ってきた人が目立ちます。
 看護師の二人が二手にわかれて、バイタルサインの測定をはじめています。普段は看護師一人なのですが、利用者が定員いっぱいの30名になる火曜日のみ二人が配置されます。
 やすらぎの利用者の一人、河内多津子さん(85歳)が席に着き、あたたかいほうじ茶が注がれた茶碗を、少し震える手でゆっくりと持ち、慎重に口元に運んでいます。加齢とパーキンソン病のため、軽度振戦と動作緩慢が生じているのです。しかし思考はフル回転しています。
<大丈夫、きっと、うまくいく>
 自分にそう言い聞かせながら、二人の看護師の姿にちらちらと視線を向けています。
利用者のバイタルサインの測定をすすめている二人の看護師は、なにかというと衝突し、仲がよくありません。背が高くふくよかな大森さん(37歳)と、小柄な近藤さん(44歳)。二人とも利用者には丁寧かつ落ち着いた態度で接し、大森さんと近藤さんも自然な感じでやりとりしているので、利用者の方たちは二人の仲の悪さに気づいていません。
 しかし、河内さんは見抜いているのです。彼女は看護師でした。ゆえに、二人の看護師の動きや視線、ちょっとした言葉尻で、なにを考え、どう動きたいのかはもちろん、二人の関係もわかるのです。
 河内さんは病院勤務ののち看護学校の教員に就き、定年を迎えました。そのことはやすらぎには伏せています。スタッフに気をつかわせる材料になったり、交わす話題がそのことばかりになる恐れがあると河内さんは考えたからです。
<ワンチャンスを逃さないように>
 河内さんはふたたび自分に言い聞かせます。仲の悪い二人になんとか仲良くなってほしい、と願っているのです。
 河内さんは、同居している娘一家の事情により、今週いっぱいでやすらぎの利用をやめることにしました。そのことは明日やすらぎの担当者に伝えることにしています。
 大森さんと近藤さんの二人が一緒のときに河内さんが居合わせることができるのは今日のみです。

 やすらぎの利用をはじめて一年、大森さんと近藤さんを観察しているうちに、部下のような、教え子のような感覚になり、二人が可愛くて仕方なくなりました。
 彼女らに注目するようになったきっかけは、はじめてやすらぎで入浴を終えたときに耳にした二人の会話でした。河内さんが脱衣所の隅の椅子に座って身体を拭いていると、小声で会話しているのが聞こえてきたのです。
「ユニバーサルとかスタンダードとかを語りたいのではなくてね」
「え、それって大事じゃないですか。病状や内服薬の情報がほとんど知らされてない現場ですから余計に」
「その大事は、医療現場における大事であって」
<ああ、感染対策のことを話しているのね>
 河内さんはすぐさまわかりました。
 ほかにも河内さんは、記録の言葉選びについてや、ある利用者への働きかけ方をめぐり「リハビリ」と「サービス」のどちらに重きを置くかなどで意見の違いが生じている二人の会話を耳にしたりしました。

 看護師の大森さんが河内さんのとなりに座る人のバイタルサインの測定をはじめます。
<いよいよ次だわ。ぬかりなくやらなきゃ>
 そして河内さんの測定の番です。
「河内さん! 血圧、測定させていただきます」
 と言いながら大森さんがテーブルの上に自動血圧計と体温計と記録用のタブレット端末を置きます。
 そのために差し出された大森さんの手の甲に、河内さんは震える手をすっと乗せていいます。
「あのね、忙しいのに悪いけどね」
 大森さんは河内さんの口元に耳を近づけます。河内さんは声を張れず、滑舌も悪くなっているので、きちんと聞き取るためです。
「お願いがあるの。同じタイミングに左右、両腕の血圧を測ってもらいたいの。実はね、今週いっぱいで、わたし、こちらの利用をやめなければならないの」
「え?」大森さんは目を丸くします。
「うん、だからね、どうしても記念にね、左右同時に、お二人に片方ずつ測ってほしいの。一生のお願い! 私、こんなお願いするのはじめてよね」
「あっ、はい」
 利用者30人のバイタル測定を素早く行わないと、次の入浴やレクリエーションのスケジュールに影響が出てしまうため、時間に余裕はないのですが、河内さんの気迫を感じ、大森さんは近藤さんのところに行き、耳元で説明します。
 そして、河内さんの願いどおり、二人のナースそれぞれが左右の腕で血圧測定をおこない、それが終了します。と、ここぞとばかりに河内さんは、震える手でナース二人の手首をつかんで引き寄せます。
<やった!タイミングを逃さないで二人の手を取ることができた!>
そして二人の手をテーブルの上でしっかり重ねあわせていいます。
「実は私ね、看護師だったの。あなたたちをずっと見てたけど、とてもいい子。看護に情熱を持ってる。二人は絶対にうまくやっていける。これを機に仲良くやってね。もう生きているうちには二人が一緒のときには会えないかもだから、私の遺言だとおもって」
 河内さんの口元に耳を近づけていた二人は、目を丸くしたのち、自分たちの手の上に乗せられた河内さんの震える手を見つめます。そして顔を見合わせこくりと頷きました。

 とはいうものの、長らくぎくしゃくしていた二人です。すぐに関係の改善を図るのは難しかったようですが、翌週の火曜日に河内さんから二人に、仲良くなったかどうか確認の電話が入ったとのことで、いかにも看護師で看護教員だった人らしい行動、という話になり、それをきっかけに仲良くなり始めたそうです。

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