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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第157回 ナースだとは言わない 2017/7
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 土曜の夜8時すぎ。
 東京の某駅近くの裏通り。
 その一角に建つ小さな昔ながらの喫茶店のテーブル席に若い女性二人が向き合って座っています。
 結城真帆さん(23歳)と宮沢千佳さん(27歳)。二人ともナースで、しかも同じ看護学校の卒業生なのですが、ナースであることも学校のことも互いに知りません。
 二人はこの店のそばにあるアパート「クレスト前田」(以下クレスト)の住人です。
 クレストは一階に3室、二階に3室の築8年のこぢんまりした今風の建物。壁が薄く生活音が上下左右の部屋に響きやすいのが玉にきずですが、駅まで徒歩二分の立地の上に賃料もお手頃とあって人気の物件です。
 クレストの住人同士は、たとえすれ違ってもあいさつを交わさないほど関係が希薄なのですが、1号室の住人の結城真帆さんは迷った挙句、思い切って三日前に3号室の宮沢千佳さんのポストに次のようなメモを入れたのでした。

…2号室の鵜飼さんが最近頻回に急な大音量をあげて2階から苦情が出ているようですね。そのことで彼の両隣の住人として少しお話できたらと思うのです。今度の土日の宮沢さんのご都合のよい時間にお願いします。

すると、宮沢さんから返事のメモがあり、二人は会うことになりました。
飲み物のオーダーを終えると結城さんが口を開きます。
「このままだと鵜飼さん、アパートの管理会社から退去命令が出て追い出されてしまうのではないかと思うんです。鵜飼さんの前に入っていた佐川さんみたいに」
 佐川さんという男性は泥酔して何回か、入口前の通路で寝ていたことがあり、それが迷惑だと二階の住人がアパートの管理会社に通報し、間もなく佐川さんは部屋を出て行ったのです。
「そうなる可能性はあるかも。クレストの管理会社はとても強気だし、周囲の人が迷惑に感じることがあったなら契約解除という入居時の約束書もあるしね」
 宮沢さんが結城さんの顔をのぞき込むようにして冷静な口調で返しました。
鵜飼さんは80代の男性です。
「鵜飼さん、耳が遠くなっているようで、どんどんテレビのボリュームが大きくなるので、私、<昼間にうるさくて眠れないため、イヤフォンを使ってください>というメモを入れたんですね」
 とまで言って結城さんは、はっとして言葉を止めます。職業がナースだとわかる言動だったかも、と思ったからです。結城さんが勤務している病棟は三交代制で、深夜入りの日の日中に彼女は仮眠をとるのです。その時間に鵜飼さんはテレビを大音量で見ていることがあり、たまらずにメモを入れたのでした。
 結城さんはナースであることを誇りに思っていますが、一年ほど前から、近所の人など深くつきあわない人たちにナースであることを知られぬように配慮するようになりました。ナースだと知った途端に、病気のこと、身体のことの相談めいた話題になることが多く、ここに引っ越す前の住まいの近所の人の中には、病院受診の便宜をはかってほしいとか知り合いの医師に症状を診立ててほしい、などと言ってくる人がいました。それを彼女がきっぱりと断ると、とても冷たい態度をとるような人もいたのです。
「夜中などに突然、テレビの大きな音が聞こえることがあるのは、寝返り打ったり立ち上がったときなどにイヤフォンが抜けてしまうんでしょうね。ごくたまにしか姿を見ないですけど、このところ急激に衰えていらっしゃるような。歩き方もよろよろしてて、髪も汚れている感じで……」
 宮沢さんはそこまで言って言葉を止めます。彼女もまた、ナースであることを明かさない方針で暮らしており、いまの言動がナースぽいと思われるのではないか、と気になったです。
 宮沢さんは、結城さんと同じようなわずらわしい思いをした上に、交際した男性がナースへの幻想を持っており、それが災いして破局した経験が二回あるのです。
「あっ、宮沢さんもそうお感じになりました? 二階の人の連絡を受けてアパートの管理会社が情け容赦なく鵜飼さんを追い出したなら、高齢者一人暮らしの彼は一体どうなるのか。そうなる前に、区の福祉の方などに情報提供したほうがよいのではないか、いや、その前に一度鵜飼さんをお尋ねして様子をうかがったほうがよいのではないか。でも、単なる隣の住人ですから出過ぎたことなのか。どう思いますか?」
「うーん、そうねえ。役所に連絡するなどなにかしらアクションを起こしたら、その後も私たち鵜飼さんにそれなりにかかわっていくことになりそうよね」
結城さんの顔を見て答えながら宮沢さんは<この人、ナースかもしれない>と考えています。<さっきこの人の口から出た、頻回、はナースがよく使う言葉。鵜飼さんの衰えを私と同じように観察していたみたいだし>
結城さんも同じく<この人、もしかしてナースかも>と考えながら宮沢さんの顔を見ています。今日の待ち合わせについてメモでやりとりしていたとき、宮沢さんは8時のことを<20°>と書いたのです。ナースはそういう書き方をすることが少なくありません。
<相手がナースであるなら自分がナースであることを表明してもいいのだけれど>と思いながらも相手がナースである確信はなく、二人はだまりこんでしまい、鵜飼さんの問題について話が進みません。
そのうち結城さんは<ああ、宮沢さんを呼び出したりしないほうがよかったかな。私どうして、鵜飼さんの件でこんなに行動的になったんだろう>と思い、宮沢さんは<ああ、土日は都合悪いといって断ればよかったのかも。私どうして応じてしまったんだろう>と思い、二人とも同じ人物の顔を思い浮かべます。二人が通った看護学校の教員の鵜飼雅子さんです。彼女は、おおらかでいつも堂々としていて声は大きく、口癖は「熱い心と冷たい頭」でした。二人はそんな鵜飼先生が大好きでした。その先生と同じ苗字の隣人を放って置けない気持ちが二人を引き合わせたのだと思われます。

二人が沈黙に耐えられず座り直したりきょろきょろしはじめたそのときです。チャリンとドアベルの音がして一人のふくよかな女性が入ってきました。なんと、鵜飼雅子さんです。

 鵜飼先生は二人にすぐに気づき、「この二人、ナースなのよ」と店内で宣言し、二人が会っている理由を聞くと、例の口癖「熱い心と冷たい頭」を言って二人のお尻を叩いたそうです。そして二人は鵜飼さんの件を区の福祉課に連絡したとのことです。
 鵜飼さんはやはりかなり衰えており、ケアの必要があったことがわかったのだとか。

 結城さんと宮沢さんはこれを機に仲良くなり、そして心境の変化があり、ナースであることをあまり隠さなくなったそうです。

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