Archive

小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第158回 星空散歩 2017/8
dotline

 夜8時の駅前A通り。いわゆるシャッター通りです。
 ずらり並んだ外灯に明るく照らされているその通りに、車いすに乗った男性が現れます。膝の上に大きめの懐中電灯を載せています。
 男性は岩井友治さん(78歳)で、車いすを押しているのは妻の真紀子さん(67歳)です。
 通りの裏手にある自宅から出てきた二人は、慣れた足取りで灯りの少ない方向へと進みます。
 二人は星がよく見えるB公園に向かっています。月に数回、星が出ている夜に散歩に出かけるのです。自宅からB公園までの直線距離は1kmほどですが、段差のない道を選んで迂回し、エレベーターにも一回乗るなどして遠回りするので、片道30分ほどかかります。
 その道中、二人に会話はありません。無言のままB公園まで行き、しばし空を見上げ、そして帰ってくるのです。
 3年前、この散歩が始まったころには会話のある往復でしたが、あるときの言い合いを境に、B公園への往復時に二人は話さなくなったのです。
そのときの言い合いを思い出しながら友治さんは心の中でつぶやきます。
<そうだ、あの日、ちょうどここにあった本屋の前を通ったとき、真紀子が五回目となるあれを言ったんだった>
 あれ、というのは次のセリフです。
「お父さん、車いすに乗っていることはひとつも不名誉なことでもみっともないことでもないでしょう。ご近所の目を避けるために、わざわざ夜に散歩に出てるらしいって噂されたりするほうが嫌だと思わない? なんだか、日陰者、いや、夜光虫みたいじゃない」
 友治さんは、その二年前、つまりいまから五年前に脳梗塞を発症し、左半身マヒになりました。急性期の病院からリハビリ病院に転院し、その後自宅へ戻りました。訪問リハビリの担当者から、積極的に散歩に出たほうがいいとアドバイスがあり、真紀子さんは夜以外にも夫を外に連れ出そうと必死でした。
<近所に見られるのが嫌だって、ぽろりと一回言っただけだったのに、そのことを何度も何度も呪文のように言うから。あのとき、かっと来ちゃったんだなあ>
 友治さんはあの日、本屋の前にさしかかったときに、「黙れ!」と叫び、膝の上に載せていた懐中電灯を健側の右手で道路に投げつけたのでした。
 すると真紀子さんは口をへの字に曲げ、ゆっくりとした動作で車いすのストッパーを操作したのち、懐中電灯と飛び出てころがった電池二つとを拾って戻ってくると、
「わかりました。では、今後、散歩のときは一切話さないから」
と静かに述べ、それを実行したのです。それから、この散歩のときには自宅を一歩出たとたんに二人とも黙ります。
 友治さんは、これまでに何度も「黙れ!」と怒鳴ったことを謝ろうと考えましたが、自分から謝るのは腹立たしい気がしてやめたのでした。
 しかし、今夜の友治さんはきちんと謝らなければと考えているのです。このところ、真紀子さんが車いすを押す速度が遅くなり、同時に呼吸が荒くなるときがあり、彼女の体調が心配なのです。今後は夜の散歩を減らすかやめるか検討する必要があり、そのことを話す前に「黙れ! 黙って押せ!」と怒鳴ったことを謝りたいと思っています。
<もはや、意地を張っている場合ではないな。今日も車いすを押す速度が遅いし、なんとなく苦しそうだ>
 それでも友治さんは、なかなか言い出せません。
 車いすは散歩ルートを進みます。
 そしていつもの公園内エレベーターの乗り口のところに着きます。階段の二十段分の距離を上下する小さな規模のエレベーターですが、これがないと車いすでいつもの場所に行くのは難しいのです。
 と、降りてきたエレベーターから、車いすに乗った女性とそれを押す男性が降りてきます。70歳前後の夫婦と思しき二人です。男性が女性の耳元に顔を近づけて「着いた」「降りるよ」などとやさしく声をかけています。
 その二人と入れ替わりにエレベーターに乗り終えた友治さんは、いまなら妻に声をかけられるかもと思いますが、到着したエレベーターの開・延長ボタンを押したりなど忙しく動く妻に対して、声をかけるタイミングがつかめまないのでした。
<あっ!>
 いつもの場所に着き、真紀子さんが車いすのストッパーをかけ終えたのを確認して空を見上げた友治さんは、心の中で驚嘆の声をあげました。「夏の大三角」と呼ばれる七夕の織女星のベガ、牽牛星アルタイル、そしてはくちょう座のデネブの3個の1等星が、ことのほか輝いていたのです。
<こんな見事な大三角ははじめてだ>
 この感動の力を借りて妻に話しかけようと考えた友治さんが横を向くと、真紀子さんが地面に体育座りをしています。
<やはり体調が悪いのか……。いつも車いすを押してくれて、日々の世話をしてくれて>
 感謝の念と申し訳なさがこみあげてきます。
「やめるか、ここに来るの」
 すっと言葉が出てきました。
 すると、空を見上げていた真紀子さんが驚いた表情を友治さんに向けながら立ち上がります。
「わ、悪かった……。あのとき、黙れなんて怒鳴ってな」
 くぐもった友治さんの声に驚いた真紀子さんは彼の顔をのぞきこみます。そして、言葉を止めたあと友治さんが、むせび泣きはじめたことがわかりさらに驚きます。
 真紀子さんはふたたび体育座りになり、しばし星を見上げ、そして口を開きます。
「お父さん。きっかけはあれだったけど、私ね、しゃべらないでお父さんとここに来るようになって、よかったと思ってるの。いろいろと思いを馳せながら移動して、そして星を見ることができる。お父さんが入院したときの、ほら、お父さんを受け持った看護学生がいたでしょ、敬語がいまいちできなくて、面白い子。あの子、お父さんには気分転換が必要だって言って、車いすで星を見に行く、星空散歩を勧めてきたでしょ。黙って星を見つめていると、星空を散歩しているような気分になってくる、なんて言って、大真面目に。指導の看護師さんに、夜に車いすで散歩なんて危険だと叱られてしょげてたけどね。
 でも、あの子が言ったとおり、黙ってじっと星空を見ていると、星々のあいだを散歩してるみたいに、ほんとに思えてくるのよね」
「大井川ちゃんだな」
 実は友治さんも、ここで星空を見ながら何度もその看護学生のことを思い出していたのです。
「そう、大井川ちゃん! あの子、お父さんがよく聴いてるジャニスイアンに興味を示して、素敵なんでしょうね、って言って実際聴いてみたみたいで、どうだった? って聞いたら、首傾げて下向いて黙っちゃってね。素直な子だったわね」
「た、体調というか、体力というか、大丈夫なのか」
「え? 私? どうして? ああ、わかった。これのことね、言わなかったっけ?」
 真紀子さんは立ち上がって片方の足先を友治さんが見えるように前にさしだし、ダイエット目的で片足に一キロのおもりが入ったスニーカーをはき始めたこと、それによって車いすを押す速度が落ちたこと、ときどき息があがることを説明しました。そして、
「ここまで車いすを押すのが、私のいい運動になってるのよ、だからね、やめるなんていわないで」
 

 二人は今後も、会話をしないで夜の散歩を続けることにしたそうです。

ページの先頭へ戻る