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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第155回 錯語 2017/5
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 夕方の西日が二人部屋の病室に射しこんでいます。
 廊下側のベッドは空床。入院していた人が今朝退院したのです。
 窓側のベッドでは大倉孝蔵さん(62歳)が仰向けになり眠っています。脳梗塞を発症し入院しました。
 彼の妻の千賀子さん(62歳)が窓際に立ち、外を見ています。
 そして孝蔵さんのベッドサイドには、娘の恵美子さん(25歳)が立っています。両親の見える位置にです。彼女はこの病院のナースで、日勤を終えた足で先ほどやってきました。
 恵美子さんは後悔の念に襲われています。西日の中に立っている千賀子さんの黒い後ろ姿の肩が負の感情によりわずかに震えている。そんな風に恵美子さんには見えます。
 先ほど恵美子さんがやってきたときには、千賀子さんは孝蔵さんの枕元に座り、夫の寝顔を見守っていました。心配そうではあるものの、落ち着いた表情で。
 やってきた恵美子さんと千賀子さんはほほ笑みあったあと、二人して孝蔵さんの寝顔を見つめていました。
 そのときでした。孝蔵さんがおもむろに目を開け、恵美子さんを認めると、
「みえこ、きてくれたのか」
と、かすれ声ながらもはっきりと言って、また目を閉じて眠りの呼吸となったのです。
 えみこ、ではなく、みえこ。
 それを聞いて恵美子さんの心はにわかに強ばりました。
 恵美子さんはいつの間にか窓際に移動していた千賀子さんに近づき、彼女の背中に言いました。孝蔵さんを起こさないようにしずかに。
「かあさん、さっきのは脳梗塞による失語症の症状で錯語というやつでね、錯語には語性錯語と字性錯語があって、とうさんのさっきのは後者の錯語でね、消しゴムをけむしごって言ったり時計をとけんって言ったりする発音を間違えるやつだと思うんだ、脳の梗塞による完全なる誤作動というやつだから」
 千賀子さんは背中を向けて黙ったままでした。
 恵美子さんは、やっぱり、と内心おもいました。いまかあさんはあのときと同じ顔をしているに違いない、と。
 みえこさんは恵美子さんの実の母親で、彼女が3歳のときに病気で亡くなりました。恵美子さんが5歳のときに、みえこさんの親友だった千賀子さんが孝蔵さんと結婚しました。結婚にいたった詳しいいきさつを恵美子さんは知りません。
 恵美子さんが7歳のときのことです。孝蔵さんが泥酔して帰宅して居間のソファに倒れ込み、うーうーとうなりながらぶつぶつとなにかをいい「みえこ」とぽろっと言ったことがありました。無意識に言ったようでした。
 父親を心配してそばにいた恵美子さんは、千賀子さんが見たことのない苦しいような悲しいような顔になっているのを目にしてぎょっとしたのでした。幼い美恵子さんは<お父さんが、みえこ、と言ったからきっとそれが辛かったんだ>と思いました。
 しかしその後、家族三人で暮らすなかで、みえこさんの話題になることが何度かありましたが、そのときには千賀子さんは辛そうな顔にはなりませんでした。それで<とうさんがぽろりと無意識に「みえこ」と名前を呼ぶと辛くなるのだ>と恵美子さんは考えるようになりました。

<なんで私はあわてて字性錯語の説明なんてしてしまったんだろう>
 恵美子さんは、語性錯語の意味性の錯語ではなく、単なる発音の間違いで「みえこ」と発音したのだと言うことが、千賀子さんのつらい思いを少なくする気がして言ったのでした。
<でもそれは、父さんが無意識にみえこと言ったら母さんがつらくなる、ということを私が知ってて気を使っているということを表明しているようなもの。言わなきゃよかったかも>
 恵美子さんは、オーバーテーブル上の時計の針を見て、孝蔵さんが「みえこ」と口にしてからまだ二分ほどしか経過していないことに驚きます。もっと長い時間、千賀子さんの後ろ姿を見つめているような感覚です。
「恵美子――」
 背を向けたまま千賀子さんが言いました。穏やかで優しい声です。
「………」
「恵美子。母さん、一度恵美子に話したいと思ってて、ずっと言いそびれていたことがあるんだけど、いま、言うね」
「………」
「恵美子は、父さんがぽろっとみえこの名前を呼んだら、私がとても傷つくって、小さいときに思いこんでしまったのかな。恵美子が7歳のとき、父さんが酔って帰ってきてみえこの名前を口にしたとき、恵美子は自分の口を押えて、目を見開いて、凍りついたようになってしまってね。子どもながらに精一杯わたしに気を使っているんだと思って、なんだか辛かった。
 で、いましがた、父さんがみえこって言ったでしょ。そしたらあなた、あの7歳のときと同じ表情になるから驚いちゃって。いまもまだ、同じように気を使ってるのかなと思ってせつなくなってね」
 そこまでいうと千賀子さんは身体の向きを変えて恵美子さんに顔を見せます。そして笑顔になります。そして、恵美子さんのそばにきて、
「普段は、照れくさくてこんな話はね、できないけど、恵美子は考え過ぎ。わたし、なんのわだかまりもないのよ。あなたが看護師になったこともすごく喜んでるんだから」
と言って、千賀子さんは恵美子さんの肩をぽんっと叩きます。看護師だったみえこさんと同じ道に進んだことを、恵美子さんは心のどこかで悪いような気になっていたのです。
<ということは、すべては私の勝手な取り越し苦労だったということ?>
 恵美子さんは下半身の力が抜けて、その場にしゃがみこみます。
「恵美子!」
 千賀子さんが思わず声をあげ恵美子さんの両肩を支えます。
 すると孝蔵さんが目を開け、千賀子さんがかがんでいるのを目にして、
「父さん、どうした。どうしたんだよ、父さん」
と言ったのです。錯語です。
「大丈夫ですよ、心配しないで」
 千賀子さんが応えると孝蔵さんは安心したような表情になってふたたび目を閉じました。
「治るよね」
「うん、治る」

 千賀子さんの問いに恵美子さんは応えたそうです。

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