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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第196回 八重さん 2020/10
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 午後4時過ぎ。
 大きな民家の二階の一室で緊張の空気が漂っています。
 室内には大塚八重さん(70歳)と、その娘の大塚菜実さん(42歳)と、訪問看護師の西河梨乃さん(45歳)の三人。
 西河さんが4時少し前にこちらを訪ねると、強張った顔で出迎えた菜実さんは玄関でいいました。
「母はいま、なにか伝えたいことがあるようなんですが、それを言えなくて怒ってるんです。すごく興奮してて」
 ベッドの上半身を挙上した部分にもたれて座している八重さんは、訪れた西河さんに何か言おうとするものの発声できず、もどかしそうに顔をゆがめ、健側の右腕でばんばんとベッドを叩くのでした。
「お母さん! あせると余計にろれつが回らなくなるんじゃないの?」
 菜実さんが、八重さんの少し傾いた上半身を正そうとすると、八重さんは「うるさい!」とばかりに、右手でそれを払おうとして、さらに座位バランスを崩してしまい、咄嗟に西河さんが対応します。
「西河さんが来てくださったのだし、落ち着いてちょうだいよ。いったいなんだって言うのよ!」
と菜実さんがけわしい眼差しを向けると、八重さんはくやしそうな表情になり、オーバーテーブル上の吸い飲みを手にとり、かたわらの写真立てにそれをぶつけます。
「写真にやつあたりすることないでしょ! 純ととった大事な写真に」
 菜実さんが目を丸くして言いました。
 西河さんも意外な光景に驚きます。

 大塚八重さんは、脳梗塞の後遺症で左半身マヒと言語障害(運動障害性構音障害)があります。二週間前に病院から自宅に帰ってきました。現在、自宅療養しながらリハビリに取り組んでいます。

 西河さんは、これまでに三回ほど接した八重さんに大きな包容力を感じていました。看護師として10年のブランクがあり、ひと月前に仕事復帰したばかりの西河さんは、訪問看護の経験が浅い点に不安を抱えています。それを感じとったかのように、看護師として勤めあげた八重さんは、「だいじょうぶ」と言っているかのような穏やかな笑顔で接してくれたのでした。
「どこか痛いのか、しびれるのか、トイレなのか、って全部思い当たることを聞いたんですけど、違うようなんです。もう、ほんとにわからなくて…」と菜実さん。

 八重さんは切羽詰まっていました。自分でも驚くほど混乱してしまい、いつもはできていたはずの発声ができずにあせり、ますます混乱しています。
 彼女が伝えたいのは、菜実さんの息子、つまり八重さんの孫の純君(5歳)のこと。
 菜実さん夫妻と純君は、この家の一階に住んでおり、八重さんが二階の自室に在室している日には必ず、純君が階段をとんとんとんと上がって彼女の顔を見に来るのが常でした。

 しかし、新型コロナウィルスの感染症が流行しはじめて以来、無断に二階に行ってはいけない、と菜実さんに言われている純君は、菜実さんのピアノの生徒さんが来ている時間を見計らい、やや、とんとんと上る音を抑えるようにしてやってきて、部屋のドアを開けて、その場所から八重さんの顔を見に来る見るようになりました。

 八重さんは、そんな純君が可愛くてたまりません。純君がとんとんと階段を上ってくる音を聴くのが生きがいといってもよく、そのために病院での闘病やリハビリをがんばったといっても過言ではありません。また、退院の際に、二階ではなく一階の部屋で療養してはどうか、と菜実さんやケアマネさんらから提案がありましたが、頑として二階の自室がいいと八重さんが訴えたのは、純君のとんとんとんと階段を上る音が聴きたいというのがいちばんの理由です。

 さて、今日も純君は彼女に会いにきてくれました。3時40分ごろです。ピアノの音が聞こえてきていたので、菜実さんのところにまだ生徒さんがいたようでした。八重さんは純君が階段をのぼってくる音を聴いて一気に不安になりました。いつもと比べてあきらかに力のない音だったからです。

 純君はめずらしくマスクもつけていました。いつもはマスクなしでやってきて、秘密だというふうに人差し指を唇にたてにあてて、いたずらっぽくニヤリとするのです。そして、純君は「バイバイ」と手を振って、足早にとんとんとんと階段を降りてゆくのです。

 しかし今日の純君は、八重さんが「マスクどうしたの?」という手ぶりを見せると、純君はピースサインをすると、いつものバイバイもせずにドアをしめて、階段をおりていったのです。実に足取りが重そうな音でした。

 純君は具合が悪いのだと八重さんはおもいました。マスクをわざわざつけてきたのは、自身が病気かもしれず、それを八重さんにうつしてはいけないと考えたのだろうとも思いました。ドアのところに立っていた様子を思い返すと、顔はいつもより青白かった気がし、肩で息をしていたようにも思えました。看護師としてさまざまな可能性が見えてきて心配がふくらんでゆきました。こうしている時間にも、純は一階のどこかに倒れ、体調が悪化しているかもしれない。ピアノの生徒を見ているあいだは、純は決してその部屋にはいかないから、母親が純の異変にきづくことはできない。
 いても立っていられなくなり八重さんは、緊急時に使うことになっている呼び鈴を、必死に振って菜実さんを呼んだのでした。しかし、何故呼んだのかが、菜実さんに伝わらないでいるのです。吸い呑みを純君と撮った写真にぶつけたのは、純君にことだと気づいてもらえるかもしれないと思ったからでした。
「大塚さん、とにかく基本的なことをやってみませんか?」
 西河さんにうながされ、八重さんは姿勢を整えること、首や肩の緊張をほぐすこと、そして深呼吸、それから口のいくつかの体操を行います。
 しかし、それでもうまくしゃべれず、八重さんの眼から涙があふれます。
 西河さんは、八重さんを担当しているSTに電話しました。看護力のなさが露呈してしまうようで、STにすぐに問い合わせなどしたくないというのが西河さんの本音でしたが、そんなこと言っていられないと思ったのです。

 STから、文字盤を使うといいとおしえられました。
 八重さんも、西河さんも、菜実さんも、あわてており、文字盤の使用をまったく忘れていました。

 はたして、純君は高熱を出していることがわかり、すぐに受診。風邪でした。
 八重さんが胸を撫で下ろしたのは言うまでもありません。
 風邪が治った純君は、とんとんとんと階段を上り下りして八重さんの顔を見にきているそうです。

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