4月だというのに、初夏を思わせるぽかぽか陽気の金曜の午後です。
閑静な住宅街の一角に建つ大関よしみさん(90歳)宅の庭では、木蓮の花が満開です。赤紫の花びらには、落ち着きの中に情熱を秘めたような存在感があります。
その木蓮を、居間から窓越しに眺めながら二人の女性が話をしています。よしみさんの娘で、姉の富士子さんと妹の波子さんです。
「このあたたかさにさ、木蓮の花が、なんか、笑っているみたいじゃない? うふふふって感じ」
「木蓮って白木蓮よりも花びらが長いでしょ、だからあたしには、暑くて犬が舌をだらりと垂らしているようにも見える」
「そうだ、香りをいつもより濃厚に発してるんじゃないかな。窓、開けてみようか」
「よしみさん、窓、開けてみてもいい? いい香りがするかもだから」
上半身部分をアップしたベッドにもたれるように座し、ちょうど木蓮の木と対面する姿勢になっているよしみさんの耳元で、富士子さんが大声で言います。声が聞こえづらいことをわかっていながら、聞こえるように言わないということが、よしみさんの不機嫌スイッチを押すことになってしまいます。一つひとつ、配慮を忘れないで丁寧に接することがどれだけ大事か、娘たちは介護を通して身をもって知りまた。呼び方も、元々は「お母さん」でしたが、「よしみさん」に落ち着きました。
よしみさんが小さく頷いたのを受けて、波子さんがいそいそと窓のそばに行きます。
全開にされた窓から、あたたかい風が竜のようにするりと室内に入ってきます。
姉妹は深呼吸し、うっとりした表情になり「やっぱり、濃い気がする。いいかおり」「うん、ほんとほんと」とつぶやくと、窓の開きを細くします。よしみさんの身体を冷やさないようにです。
帰る支度を終えた訪問リハビリの理学療法士の女性が、木蓮に目をやって穏やかに座っているよしみさんの耳元で大きな声でいいます。
「それでは、今日はこれで失礼いたします。また、伺ってもい・い・で・す・か?」
よしみさんが小さく頷くと、さりげなくよしみさんに注目していた姉妹は、理学療法士の女性と目をあわせてにっこり。
理学療法士が退出すると、そこへ玄関のチャイムがなり、来訪予定の訪問看護師・樺山さんが「こんにちはー」と言いながら入ってきて、ベッドサイドに回り込んでしゃがみ、よしみさんに顔を見せてにこりとし、頭を下げて挨拶します。そして、目を閉じてひと呼吸すると樺山さんは、よしみさんの耳元で「春らんまんですね」と声をかけます。
よしみさんは口角をちょっとあげて微笑んだあと、「ですね」と声を発します。
室内には実に和やかな雰囲気が漂っています。
こんな時がやってくるとは、室内にいる全員が想像していなかったのでした。
三週間前、よしみさんは病院から退院しました。それほど遠くはない場所に自宅のある姉妹が自らの実家であるよしみさん宅に交代で泊まり込み、さらに医療・介護などの専門家たちのサポートをがっちり受ける形でよしみさんの自宅療養がはじまりました。
しかし、はじめに姉妹とよしみさんの関係が急激に悪くなりました。介護未経験の姉妹は、計画通りにことを進めようとしてよしみさんのペースを尊重できない面があり、よしみさん自身も娘にストレスをぶつけるようになりました。娘にかみついたこともありました。姉妹間でも喧嘩をするようになりました。
そのうちよしみさんは、もともと好きではなかったリハビリをあからさまに嫌がるようになり、訪問した理学療養士に物をなげつけることもありました。また、陰部にできたびらんの痛みがあり、その処置をする訪問看護師の樺山さんの顔を見ただけで興奮して暴れるようになってしまいました。
姉妹とサポートメンバーで話し合いを持ち、なんとか状況改善を図りました。それでさしあたり、リハビリは少しずつ進めることが可能となり、陰部のびらん処置でもよしみさんは暴れることはなくなりました。
しかし、短い期間で濃厚に身内で傷つけあったことが関係してか、よしみさんと娘たちの三人は、それぞれに心を閉ざし、淡々と療養とその世話というノルマをこなしているかのような重い雰囲気の数日が過ぎたのです。
そして、いまから二週間前、転機が訪れました。その日の午後、居間には母娘の三人がそろっていました。
姉妹が同時にため息をついた瞬間、玄関のチャイムがなりました。昔からつきあいのある近所の元電気屋の男性、桧山さんでした。
桧山さんは、ひとり暮らしのよしみさんに頼まれて、半年に一回程度、電球の交換や電気製品の修理などを、何年も前から行ってきたそうでした。
「あっ、富士子ちゃんだよね、しばらくだねえ、あれ? なんか、みなさん、ぴりぴりしてます?」
居間に入った桧山さんの第一声です。
「あれ? どうしたのよ、しょぼくれちゃってさあ」
彼に手の甲をさすられてよしみさんは、仏頂面でしばらく相手を見つめていましたが、堰を切ったように泣き出します。
「な、なんだよ、よしみさん。どうしたの? 入院して帰ってきて、富士子ちゃんらが来てくれてるって聞いたけど……」
言いながら彼が振りむくと、姉妹もそれぞれにしゃがみこんで泣きだしています。
「え、えーっと、どうしたのかな……」
桧山さんは、腕組みをして母娘三人をしばらく眺めたあと、口を開きます。
「なにがあったのかは知らないけどさあ、いろいろ、大変だよなあ、たぶん、泣くとすっきりするよ。二階のトイレとお風呂の脱衣所の電気がたぶん切れてるでしょ。いま替えてくるから、そのあいだ思いっきり泣いといて」
桧山さんが居間に戻ると、母娘は茫然とした様子になっていました。
「泣き笑いって言うくらいだから、泣いたあとは笑わなきゃね、そうだ」
サイドボード上のラジカセをオンにして、「車でさっき聞いてたラジオ、まだやってるはずだな。おもしろいんですよー」とつぶやきながら、チューニングします。
ラジオのパーソナリティの男性が重々しく語るのが聴こえてきます。
「では、次の真実をみーなーさーまーにー。イランでは、西瓜のことを、ヘンダワネ、といいます。ヘンダワネ」
よしみさんが「それは……」と小さく言います。
ほかの三人がよしみさんの顔に注目します。
すると、よしみさん。「ヘンダワネ」といってにこり。
姉妹は、順に「ヘンダワネ?」と言って顔を見合わせて笑いだし、その場の全員が、しばらく、笑いを呼ぶ魔法のようなその言葉を繰り返し口にしたのでした。
それがきっかけで、それまでのぴりぴりした重い雰囲気は一掃されたのです。一日に一度くらいは、母と姉妹のうち誰かが「ヘンダワネ」と言いだし、ひとしきり笑いあうのです。皮膚に発赤ができただの、便秘だの、うれしくない事態が起きたときもよしみさん自らが「ヘンダワネ」と言って場を和ますのです。
辛い嵐が去ったあとの快晴が訪れる時期にきていたところに、ぴたりとはまった言葉だったのかもしれません。