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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第177回 欠勤の翌日 2019/3
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 朝。
 看護師の船坂静枝さん(64歳)は、いつものシートに座り電車に揺られています。自宅の最寄駅から快速で約40分の駅の近くにA病院があり、そちらに43年間通っています。
 彼女は通勤電車内での過ごし方が決まっています。ホームのいつもの場所に立ち、電車を一本見送ってから乗り込んで席に座ると、まず忘れ物がないかをチェック。次に手帳を開いてその日の勤務を確認します。現在は二交代勤務ですが、三交替勤務のころに準夜勤務だったのを日勤と勘違いして出かけてしまいそうになりヒヤリとしたことがあり、以来、確認を欠かしません。次に好きな音楽を一曲だけ目を閉じて聴き、そのあとはラジオを小さくかけてふたたび目蓋を閉じます。
手帳を開いて勤務の確認をした船坂さんは、イヤフォンをつけてipodのシャッフルボタンをタッチすると目を閉じます。かかったのは「夜明けのうた」。彼女が大好きな歌です。現在勤務している8階病棟のスタッフステーションの窓からは陽が昇るのがよく見えるため、それを見ることができると思えば夜勤も苦ではない彼女です。業務の手をとめて、つかのまその窓から陽の出を見ながら、心の中で「夜明けのうた」を歌うのが何よりもたのしみでした。外来勤務となって久しい彼女でしたが、定年は、この窓のある8階病棟で迎えたいと考え、希望を出して、昨年、古巣に異動してきました。
 「夜明けのうた」を聴いている彼女の目頭からひと筋の涙が流れます。
 彼女は昨日、就職以来はじめての欠勤をしました。
定年まで無欠勤で皆勤賞をもらうこと。それが彼女の仕事人生における最大の目標で、その達成のために日々努力をつづけてきました。風邪やインフルエンザにかからないように注意するのはもちろんのこと、「判で押したような生活」と友達から評される暮らし方も、目標達成のためです。同居していた母が他界してからも、生活パターンを変えないために、同じマンションに暮らしつづけてきたのです。
 船坂さんは曲を聴きながらスタッフステーションの隅に掲示されている勤務表を思い浮かべます。表は上から順に、看護師長、主任、そして副主任の二人の名前が並び、上から5番目に船坂さんの名前。自身の欄の昨日の日勤と書かれた予定の上に「欠」という赤い判が押されているのをイメージし、彼女は胸苦しくなります。A病院では欠勤が目立つようにそうすることになっているのです。その判が一度も押されたことのないことが彼女の秘かな誇りでした。若い同僚たちに影で「ゴースト」とか「万年ヒラさん」と渾名をつけられようが、看護研究のメンバーになることを断って主任に嫌な顔されようが、歓送迎会の二次会で声をかけるのを忘れられようが気にしない彼女ですが、「欠」の判が押されることは大きなショックです。
病欠ではありませんでした。
 おとといの夜、船坂さんは師長に電話しました。
「え? 船坂さんが欠勤?」
「はい。ご迷惑をかけてたいへん申し訳ないのですが」
「どうなさったんですか? 体調?」
「いいえ、明日は、私のもっとも大切な人の一大事に駆けつけたいんです」
「え? えーと、どういうこと、でしょう、一大事とは」
「具体的に説明したくはありません。でも、正直に話しています」
 船坂さんは、人生で一度だけの欠勤で、みなにどう思われようと適当な噓はつきたくなかったのです。けれども詳しくは語りたくありませんでした。
「明日、みんなに、欠勤の理由を、いま、船坂さんが言ったそのままの言葉で説明してもいいですか?」
「はい」
 イヤフォンから聞こえている「夜明けのうた」がもうすぐ終わりそうです。彼女の母親が好きでよく聴いていたことに影響を受け、この歌を好きになりました。彼女の母親はこの曲が終わるといつも、
「この歌を聴くとかならず夜明けがくるんだってことがわかるのよ。それと歌詞の中にはないけど、夜も必ずくるってことを語ってる気がするの。夜がこなきゃ夜明けはこないわけだから。夜も夜明けも絶対にくるんだから、両方とも、なんか頑固よねえ。人間もね、多少頑固でもいいのよ」
と言って笑いました。
 「夜明けのうた」を聞き終えた船坂さんはわずかに微笑みます。

 ユニフォームに着替えた船坂さんが8階病棟のエレベーターを降り、スタッフステーションに入り、勤務表に歩みよります。自分の欄に押された「欠」の赤い判を見届けるためです。
「ん?」
 船坂さんは、勤務表を見て驚き思わず声を漏らしてしまい、やってきた師長に疑問の表情を向けます。
 船坂さんの昨日の勤務の部分に「欠」が押されておらず、元から「休み」のシフトだったように書かれています。

 実は、昨日の朝のミーティング時に、師長から船坂さんの欠勤とその理由を説明されたスタッフたちは、「船坂さんに皆勤賞をとらせてやりたい」と言い出し、師長に、もともと休みだったように調整してほしいと嘆願したのでした。その中心になったのは、普段船坂さんを陰で「ゴースト」と呼んでいる若いスタッフだったそうです。

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