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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第179回 肖像権 2019/5
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 夕方の介護老人保健施設G。
 利用者の小泉三郎さん(78歳)が、四人部屋の窓際のベッド上に仏頂面をして胡坐をかいています。黒縁の老眼鏡をかけ、新聞を開いています。
そのベッドサイドに、看護師の折口洋子さん(25歳)がうつむいて立ち、そのとなりにGの事務長の大川浩二さん(56歳)が笑顔と困り顔をミックスしたような表情をして立っています。
 大川さんが笑顔を作りなおし、小泉さんの顔を覗き込みながら静かにいいます。
「こわい言葉使わないでほしいんですがー、訴えるだなんて」
「ふん、きみは事務長だろ、私はここの責任者を呼んだんだ」
「ですから施設長は、きょうは一日不在のため、私が代理なんです、申し訳ありません」
「まったく、どういう教育をしているんだか」
そう言うと小泉さんは折口洋子さんをちらと見やります。
 小泉さんは、折口さんのせいで自身の肖像権を侵害されたとして憤慨しているのです。
 
 約2時間前、介護スタッフの柴田さんが、記録をしていた折口さんのそばにやってきました。肖像権にかんする確認書のファイルを抱えていました。利用者それぞれに写真をホームページなどに載せてよいかどうか確認し、綴じたものです。柴田さんはそのファイルの小泉さんのページを開き、折口さんに声をかけました。
「小泉三郎さんの確認書、受け取ったサインが折口さんになってますね」
「はい」
 折口さんは、ふた月ほど前に、小泉さんの家族の若い女性からこの確認書を受け取り、介護スタッフに扱い方をたずねて対処したことをよく覚えていました。彼女がGに入職してまもなくの頃です。
 柴田さんがいいました。
「こないだ更新されたうちのホームページのお節句の行事レポートのところ。写真に小泉三郎さんが載っててね、ご自分の顔にぼかしがかかっていることに御立腹なのよ。午後に面会に来たお孫さんに、顔にぼかしがかかった小泉さんらしい人が載ってるよって、iPadで見せたらしくて」
 折口さんは、「掲載を許可しない」に丸がついている小泉さんの確認書を改めて確認し、
「えーと、お顔にぼかしがかかっているなら、問題ないのでは?」
「いや、彼は、許可をする、に丸をつけたって言うのよ、ほら、許可するに鉛筆でつけた丸を消した跡がうっすら残ってるでしょ。小泉さんは、これを扱ったスタッフが勝手に、許可しない、に丸したんだろって。もう、よぼよぼだし、顔を出さない方がいいって決めて、勝手に変えたんだろうって」
「そ、そんなことするわけないじゃないですか!」
「そうよねえ」
 折口さんは、すぐさま小泉さんのベッドサイドを訪れ、そのときの経緯を説明しました。ご家族だという若い女性に廊下で確認書を受け取り、そのままファイルしたということをです。すると小泉さんはこう返したのです。
「あのね、私の家族に女性はいないんですよ。私は家内と死別、息子は相手と生き別れ。で、孫たち三人はみな男。一家全員男。
だから、きみのいまの説明は作り話。あるいは、そうじゃないとしたら私は丸をつけてここのテーブルの上に置いておいたんだから、それを見ず知らずの若い女が丸を付け直して家族を語ってあなたに渡したか。でも、そんなこと、どこかの若い女性がなんのためにやるんだね。
まあ、どこかの女性があなたに渡したとしても、どうしてそのときに、きみは家族かどうか確認しなかったのか。危機管理意識というものがないだろう」
 折口さんは、自分に過失があるとは思えませんでした。
<廊下で、小泉三郎の家族です、と言いながら手渡されて、家族なのかどうか確認するのは相手に不快をもたらすように思えて、私にはできない。それに印も押してあったし>
 しかし折口さんは頭を下げ、「ご不快な思いをさせてしまったこと、申し訳ありません」
すると小泉さんは、じろりと折口さんを見て
「なんだか、自分が悪かったとは思っていないような言い方だなあ」
「………」
「やっぱりそうなんだろ。ならば、法的手段だ。訴えるぞ」
 折口さんは、ここで不用意な対応をしてはいけないと思い、一礼をしてその場を離れたのでした。
 
 事務長がふたたび小泉さんの顔をのぞきこみながら、
「何かの誤解があるような気がするんですよー」
「もし誤解があったとしても、いまこうして心理的に辛い思いをさせられていることは紛れもない事実だから」
 その言葉を聞きながら、折口さんは考えます。
<経験を積むとこういうやりとりが不毛だと思わなくなるの? 急性期に戻ろうかな……>
 と、そこへ「あのねえ」という男性のしわがれた声がして、折口さんが顔をあげると、いつのまにか、小泉さんと同室で廊下側のベッドの稲垣幸雄さん(80歳)がそばにきていました。稲垣さんは、乗っている車椅子で小泉さんのベッドにさらに近づき、
「だめだよー。若い娘をいじめちゃ! 可愛さ余って憎さ百倍ってやつか?」
 とまで言うと事務長の顔を見て、
「小泉さんはね、この看護師さんが、あの、なんていったか、真っ白の髪の毛を団子に結ってるおばあちゃんの手の爪を切る前に、伸びてる爪を切ってもよろしいですか? って確認しているのを目撃して、とても丁寧な看護師だって言ってたの。ほら、あのおばあちゃん、息子に爪切ってもらうのをたのしみにしているでしょ。そんなお気に入りの看護師さんをなんでいじめるかなあ」
 すると小泉さんは唇を尖らせて窓のほうにぷいっと顔を向けます。
 そこへ、若い男性と若い女性が部屋に入ってきます。
「あっ」
 折口さんは思わず声をあげました。入ってきたのが肖像権の書類を受け取った女性だったからです。
 
 その女性は、同時に入ってきた小泉さんの孫の婚約者で、小泉さんが丸をしたのを消して「許可しない」に改めて丸をつけたのはこの孫だったことがわかりました。

 このころの小泉さんは、自身の物忘れのひどさに対して大きな不安を抱えはじめていたということが、しばらくしてわかったそうです。折口さんはGを辞めずに働いているそうです。

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