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小林光恵さんのこちら、ナース休憩室別館小林光恵(こばやしみつえ)プロフィール

こんにちは、小林光恵です。
皆さんとナース休憩室で
雑談しているときのような気持ちで、
つれづれに書いていきたいと思っています。

第183回 謝罪 2019/9
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 午前5時すぎの緩和ケア病棟の病室。
 個室病室のベッドライトが、仰向けに横たわり天井に目を向けている道川勝一さん(82歳)を静かに照らしています。
 そのベッドサイドに立っている看護師の板橋早紀さん(41歳)が、
「改めて、お詫びもうしあげます。申し訳ありませんでした」
 と神妙な面持ちで言って頭をさげます。約束を破ったことを謝罪しているのです。
 道川さんはそれに応じず、口をへの字にしたまま天井を向いています。
 
 道川さんの愛妻の百合子さん(78歳)は、勝一さんの療養生活の目標を考えることに熱心で、
「生きる張り合い。たのしみ。そのためにと思えば、毎日の面倒なこともなんとかできるんだから」
とよく話していました。
 そして一つの強いこだわりがありました。花見や花火など、季節にまつわるイベントを目標にはしない、ということ。たとえば、桜の花見を目標にしていたなら、それが終わると目標がなくなり、あっけなく逝ってしまう場合があるから、という理由です。
 このところ彼女が勝一さんの療養目標として掲げているのは、孫によるお見舞い。道川さん夫妻には五人の孫が、毎月かわるがわる勝一さんを訪ねる形となっていました。孫たちは就活や学生生活でみな忙しくしているようでしたが、そのうちの誰かが必ず二週間に一回、土曜か日曜に面会にきていました。その陰には、百合子さんの熱心な孫たちへの働きかけがありました。
 いまから四日前の土曜日の夕方、板橋さんが訪室すると、ちょうど見舞いの孫が帰ったあとで、百合子さんがベッド周りの片づけをしているところでした。
「あら、もしかして、お孫さんのお土産ですか?」
 額装された小さな油絵が窓際に立てかけてあり、板橋さんが勝一さんに声をかけました。
「そうなんですよ、わが孫ながら、海に浮かぶ一艘の漁船の絵とはセンスいいなあ」
 といって目を細める勝一さんに百合子さんが、
「来月はね、シズカがお見舞いに来たいって。だからがんばって食べて、いい顔をシズカに見せてもらわなきゃ」
と声をかけました。
「………」
 勝一さんはそれに返事をせず、痛み止めのパッチを張り替え終えた板橋さんを真顔になって見ながら、
「板橋さん、生きる支えとか目標ってのは、わざわざ作るより自然に発生するのがいいでしょう。違います?」
「は?」
「孫を定期的に見舞いにこさせるのは、心苦しくてね」
 と勝一さんが言うと、百合子さんが目を丸くして、
「何言ってるの! 見舞いに行っていいかってちょくちょく電話あるから、それなら、おじいちゃんがたのしみにすることができるように、それぞれ別々に来て頂戴って言っただけ。目に入れても痛くない孫が来てくれるのが、たのしみで仕方ないんじゃない。それが気力につながるって、こないだも言ってたでしょ」
「みんな若いがゆえのいろいろがある時期だ。そんな孫たちが可愛いからこそ、来なくてもいいって言ってやるのが優しさというものだ」
「な、なんでそんなこと言い出すのよ。あなた、孫にできるだけ元気なところを見せたくて、いま、毎日がんばってるんじゃない。いわば生きがいじゃない。それがなくなったらどうなるのよ」
「別にどうにもならないよ。見損なうな。オレにはちゃんと目標がある」
「どんな目標?」
「…………」
「ほんとは、ないんじゃないの?」
「あるよ。 とにかくシズカたちには、もう見舞いはしなくていい、いや、来るなって言ってくれ」
「嫌」
「なら、LINEでシズカたちにこっちから連絡するからいいよ」
「なによそれ!」
 百合子さんは洗濯物をつめた紙袋を持って出ていきました。
 その翌日の夜、訪室した板橋さんに勝一さんがぼそぼそと言いました。
「家内を怒らせちゃいましたよ」
「きょうは、お見えにならなかったんですか?」
「ええ、忙しいときは五分でも、という感じで、ほぼ毎日来てたんですけどね」
「明日はいらっしゃるんじゃないでしょうか」
「どうかなあ、あれは案外頑固だから」
「昨日のお二人のやりとりにあった、道川さんの別の目標がどのようなものか、を説明されると奥様、安心なさるのではないでしょうか」
「それは言えないんですよ」
「そうですか」
「家内に絶対に言わないと約束してくれますか?」
それを受けて板橋さんは頷きました。
「私の目標は……、できるだけ多く、家内を笑わせることなんですよ」
その翌日、病院の中庭のベンチに座り泣いていた百合子さんを見かけた板橋さんは、勝一さんとの約束を破ってしまったのでした。すると、そのことが百合子さんから孫のシズカさんたちに伝わり、そして勝一さんにもそれが伝わり…。
 
「ほんとうに、申し訳ありません」
と板橋さんはふたたび頭をさげて、
「約束を破り秘密を守れなかったことは看護師として失格ですし、信用できない人間だとおもいます。実は、私、うっかり約束を破ったのではなく、あえてそうしました。進退をかけて。どうしても奥様に伝えたくなって。ですから、私のこの不祥事は、明日にでも師長に報告して、今後、処分してもらおうと思っています」
「え?」
といって勝一さんは丸くした目で板橋さんの顔を覗き込み、
「しょ、処分って、そんな。うちのは、あの話は聞いてないふりして、いつも通りここにきたし、伝わっちゃったのは、仕方ないからさ」
「…………」
「驚いたなあ」
なおも神妙にしている板橋さんをまじまじと見ながら、「それにしても、この地球上にものすごい数の看護師さんがいるだろうけど、明け方に、患者に何度も頭を下げて謝っている看護師はあなたくらいじゃないかな。許す、許しますから。気にしないで」

 そう言って勝一さんは頬を緩めて笑顔になったそうです。

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